「或売笑婦の話」の感想
或売笑婦の話
あるばいしょうふのはなし
初出:「中央公論」1920(大正9)年4月

徳田秋声

分量:約30
書き出し:この話を残して行つた男は、今どこにゐるか行方《ゆくへ》もしれない。しる必要もない。彼は正直な職人であつたが、成績の好《よ》い上等兵として兵営生活から解放されて後、町の料理屋から、或は遊廓から時に附馬《つけうま》を引いて来たりした。これは早朝、そんな場合の金を少しばかり持つて行つた或日の晩、縁日の植木などをもつて来て、勝手の方で東京の職人らしい感傷的な気分で話した一売笑婦の身の上である。その頃その女...
更新日: 2025/05/27
65c8aadc88adさんの感想

雙之川喜1941  言ってみれば 親子なのに 兄弟に なり損ねた こころ あたたまらない 話しで ある。秋声は 筋立て 命の 人で 溜めが ないので 余情も 無い。と 感じた。

更新日: 2022/02/25
ace0443be3bcさんの感想

とても面白く読むことができた。読み終わってすぐに、「売笑婦」と「売春婦」の違いを調べてみた。 まあどうだっていいようなことだが、なんだか気になって仕方がない。 調べた結果、両者には、まっまく違いはないそうだが、自分の感覚からすれば、どうもしっくりこない。 「売春婦」は、いまでもガチに使われている現役だけれども、「売笑婦」の方は、まったく聞いたこともないから、古語とか死語のたぐいかもしれない。 現役と古語の時間差を無視して、あえて並列にして比較すると、前者は「からだを売る」ことが主体で、後者は「酒宴に付き合う」のが主体という感じを受けるが、その場の勢いと、成り行きで、どうにでもご相談にのりましょう、イッヒッヒみたいな感じでではないかと愚考し、ゆえに、前者はデリへル、後者はコンパニオンと思い定めた次第である。 しかし、この小説を読んで考えを改めた。 部屋に上げて時間で幾ら、この間にムニャムニャムニャの世界なのだから、どちらにしても、イタス事柄自体には差異はなく、やはり音曲のできる芸妓さんとは大違いなのだろう。 さて、小説の方だが、年期がとうに明けた売笑婦、だが、ここといって帰る所もないので、そのまま気の置けない客だけをとって稼業を続けていたある日、大学生が来て昵懇になり、やがて男から求婚されるが、女は気持ちは動くものの、こういう世界に一度身を沈めた自分が、いまさら堅気の生活に入ることができるのか不安になり、決心がつかないまま、むざむざ機会を逃しかける。 だが、この稼業から、いよいよ足を洗うことが現実味を帯びてくると、我が身の行く末が突然不安になり、思い立ってかねて聞いていた男の郷里を訪ねる。 突然訪ねたので、男が驚くのも無理ではないが、母親には自分のことを友人の姉だと紹介した。 以前、男は、この世界の女でも母親は理解があるからきっと分かってくれるとか言っていたはずだと思い出し、少し苦い気持ちになる。 翌日、二人は浜辺に出て話をしている。 遠くの船着き場から降り立った客が、こちらに向かって歩いてくる。 女はすぐに、それが、ときどき自分の所に通ってくる馴染みの客だと気がつく。 それが男の父親だった。 女は男の前から静かに姿を消す。 読ませることは読ませるのだが、読後、時間が経過するに連れて、感銘と思っていたものが徐々に色褪せ、やがて苦渋に満ちた寒々しいものに変化してしまうに違いないという確信みたいなものもなくはない。 あえていえば、「墨(さんずい付き)東綺譚」を読んだときに感じた澄みきった胸に迫る純愛の哀切感の絶望的な欠落だ。 この売笑婦の酷薄な底意が透けて見えてしまい、すべてが計算ずくであることの、ささやかな嫌悪感かもしれない。

更新日: 2021/11/24
阿波のケンさん36さんの感想

ある売春婦のお話。自分のことを良く思ってくれる大学生を足抜けした後にと思って彼の実家に出かける。良くはしてくれるが自分の境遇を鑑み自ら身を引く。