吉原のハネ橋考とは、これはまた面白い。 自分たちの世代は、だいたい同じようなものだと思うが、幼い頃から親が聞いていた落語、講談、浪曲のたぐいを傍らで聞いて育ったために、侠客の話とか、遊郭やお女郎さんの話を、子供だてらにほぼ正確に理解していたと思う。 だから、吉原の大門だとか、見返り柳だとか、なんだか旧知の事物のような親しみをもって感じることのできる小学生だったのではないか。 これを早熟だとかマセテルなどと言われてしまうと極めて心外で、年相応の幼さと同居出来ていたそういうタイプの子供だったと思う。 樋口一葉にある種のシンパシーを感じるのは、そのためかもしれない。 さて、落語において吉原の話というのは、やたらに多いのだが、これが「大門」が登場するものと限定すると、意外に思いつけない。 そういえば「付き馬」という噺があった。 金がないのにナカで一晩遊んで、翌日、金作のためと称して付け馬の若い衆を大門の外に連れ出し、巻いて逃げてしまうという落語だった。 あそこでは、確かに大門というのは、ナカの人間を容易に外へは出さないという意味で、重要な役割を担っていたことが理解できる。 そうそう、この噺はどうだろう、「明烏」。 家にとじ込もってばかりいる学問好きの息子を心配した練れた親爺が、土地の地回りに頼んで息子を遊郭に連れ出して柔らかくしてくれと頼む奇妙なシチュエーションの噺だ。 最初は嫌がっていた若旦那だが、若く優しい花魁と一夜を過ごした翌朝には、すっかりデレデレになってしまったという結末、全然もてなかった源兵衛と太助が若旦那を起こしにいく、 「若旦那、あんたも図々しいね、花魁が起きろと言ってんだから、いい加減、起きたらどうなんです」 すると、若旦那はこう言う。 「花魁は口では、そんなふうに言ってるけれども、布団の中では、足で私の体をぐうっと押さえてるから、起きられないんです」 そんなあからさまなのろけを聞いた二人はあきれて、私らは仕事があるから先に帰りますからね、と言った後の下げが「帰れるものなら帰ってご覧なさい、大門で止められるから」とスポットライトが当てられた大門だった。 思春期前の自分は、大人たちに混じってこの下げを聞きながら無邪気なふうを装って一緒になって笑っていたのだが、頭の中には、むき出しの肌けた女のピンクに染まった太ももが、若旦那の裸の下半身に絡み付いてうごめいている妄想が、淫らに渦巻き続けていたのであった。
吉原遊廓は溝で囲まれております出入りは石橋があったが通常閉まっていたという。廓側からはね橋(戸板)が掛かる様になっていたらしい。廓外からは掛かる様にはなって無かったという。