「誰が何故彼を殺したか」の感想
誰が何故彼を殺したか
だれがなにゆえかれをころしたか
初出:「新青年 八巻五号」1927(昭和2)年4月号

平林初之輔

分量:約29
書き出し:一下田の細君が台所の戸を開けたときは、まだ夜があけてまもない時刻だった。その朝は、東京に気象台はじまって以来の寒さだったことが、その日の夕刊で、藤原博士の談として報じられた程で、まるで雪のようなひどい霜だった。地べたは硝子《ガラス》をはりつめたように凍《い》てついていた。彼女は左手にばけつをさげ、右手に湯気のもやもやたちのぼる薬缶《やかん》をさげて井戸端へいった。井戸というのは、下田の家《うち》と...
更新日: 2016/04/13
芦屋のまーちゃんさんの感想

“彼女は、夫の死体を見ると、さすがに感動したものと見えて、「まぁ」と一言言ったきり、棒だちになってふるえていた。”とある。震えるのはわかるが、死体を見て感動するとはどういうことだ?何か不自然というか釈然としないような表現ではあるが、逆に自然なのかも知れない。本当の悲しみに直面したら、取りみだして泣きわめく行動ではなく、呆然と涙も言葉も出ず、ただその場に立ちつくすような気がする。 私事で言うと、普段涙もろい自分が父親の死の知らせやその後の葬式でも一滴の涙も出なかったのは今でも不思議である。周囲の人達からすると何て薄情な息子だ!と映ったに違いない。 本題に戻ると、殺人事件ではあるが被害者の夫は随分評判が良くない輩で、誰もが容疑者である可能性を匂わせている。そうであれば、被害者の妻が「まぁ」と言っただけだったのも納得がいく。 最後に迷宮入り事件の犯人像を統計的推理によってパターン化しているのは少々無理もあるが面白い。そして犯人だと考えられるある人物の思想にドストエフスキーの〈罪と罰〉を持ち出している。マジョリティが幸福ならマイノリティは犠牲になっても許される。悪人はいつだってマイノリティであることが前提。国家間ではどうか?NorthKorea vs 正義? 結局、犯人を断定できずにフエイドアウトしていくのも、それはそれでありかも知れない。