「女郎買の歌」の感想
女郎買の歌
じょろうがいのうた
初出:「東京朝日新聞」1910(明治43)年8月6日

石川啄木

分量:約4
書き出し:『惡少年を誇稱す糜爛せる文明の子』諸君試みに次に抄録する一節を讀んで見たまへ。○しばらくは若い人達の笑聲が室の中にみちて、室の中は蒸すやうになつた。その中に頼んだ壽司とサイダーが運ばれたので、みんな舊の席へかへつた。舊の席に就いて、それから壽司とサイダーを飮み乍らまた談話が開始された。それからそれへといろ/\おもしろい話の花が咲く。瓦斯が明るく室中をてらして、かうして若い人達の並んでゐるところを見...
更新日: 2022/02/28
cdd6f53e9284さんの感想

啄木のこの小文を読みながら、同じ年に書いた小説「我らの一団と彼」を想起した、書き出しの人物描写や雰囲気がどことなく似ている。 大逆事件が発覚したそのさなかに、啄木自身もこの事件に相当インスパイアされて、発表の当てのない小説を書かずには、いられなかったのだろう。 それに、アナキズムに魅せられたのも、世に入れられない彼自身の不遇への苛立ち、そしてやり場のない憤りと無縁ではない。 しかし、ここで語られているのは、政治の話なんかではなく、女郎買いの話、なんか肩透かしを食わされた思いだった。 しかし、啄木は、そのまだ年若い歌人の「女郎買いの歌」を前にして、年長者の分別を装って取り澄まして語っているのが、自分としては、すこぶる気にいらなかった。 啄木こそ、家族を北海道に残して単身上京した気ままな時期に女郎買いに熱中し、女郎たちとの赤裸々な性交渉の具体的な描写をローマ字表記で書き残している。 その辺の事情は、ドナルド·キーンが数年前に書いた「石川啄木」(新潮社)に詳しい。 当時の書評には、こうある。 《名著「百代の過客 日記にみる日本人」の著者であるキーン氏は、続編の近代編ですでに啄木の日記の魅力にふれ、ことに「ローマ字日記」の「赤裸な自己表現」を高く評価している。なぜローマ字が選ばれたのだろうか。「妻に読ませたくない」からだと言うが、同時に啄木は自分の真実を書きたいとも思っている。書きたいが読ませたくないというこのジレンマから、彼はローマ字表記という斬新な「意匠」を思い至ったのではないだろうか。事実、啄木は短歌の「三行書き」のような革命的な意匠を即興で苦もなく作り出した天才であった。》 ここでさりげなく、あっさりと書かれている「天才」については後述するとして、政治のことに大変な関心を持っていた啄木のまずなりたかったものは、政治評論家だったらしい。「時代閉塞の現状」など、まさにそういう仕事だったろう、しかし、評論は学識の裏付けなくして、いっときの感情だけで書けるものではない。 さらに、幾つかの小説も書いたが、啄木の書くものは観念論ばかりで、そもそも「小説における描写」というものが分かってない。 「ローマ字日記」に書かれた女郎たちとの赤裸々な性交渉の描写も、自然主義作家を目指す啄木の涙ぐましい(人目を気にした)練習とみた方が理解しやすい。 では、短歌はどうか。 間違いなく、これは「天才的」だったと思う。 それについて、渡辺淳一が、絶妙な言葉を残している。 《少しでもものを書いた経験がある者なら分かるはずだが、努力で書く人より才能で書く人の方が怖い。 努力の結晶などという作品より、才能のカケラがちらつく作品の方が不気味である。 そして、その才能の最も顕著に表れるのが、小説なら文章で、歌なら酩酊感である。 いや、これは小説や歌に限らず、すべてに共通するもので、才能ある作家の文章には、内側に固有の酩酊感があり、それが読む者を惹き付ける。 一般の読者は、文学理論の難しいことは分からない。 しかし、酩酊感だけは、原初的なものであるだけに、鋭く感知する。 読者はそれに酔い、そのことによってイメージを喚起される。 「東海の小島の磯の白砂に······」と啄木が詠んだ函館の大森海岸には、小島も、磯も、白砂というべきものもない。 「しらしらと氷かがやき千鳥なく······」と詠んだ釧路の冬の海に、正確な意味で千鳥はいない。 もし、実証家なり、勤勉な歌人がこれをしったら、啄木のインチキ性をなじるかもしれない。 だが啄木はもともとそういうことには無頓着な、その手の調べはせず、その場の思いつきのまま、フィクションをまじえて歌った人である。 そして、困ったことには、それが事実以上に、読む者にリアリティを与えて、酔わせてしまう。 啄木の歌を読むたびに、私は歌人にならなくてよかったと思う。 あれほど、日常些事のことを苦もなく詠み、酩酊感とともにリアリティをもたせ、そっと人の世の重味を垣間見せるとは、どういう才能なのか。 この「そっと」という重みの具合が、また適切で、あれ以上、重くても軽くてもいけない。 そして、さらに、死ぬまで視点を低く保ち続けたところが、心憎い。 これほど巧みで、酩酊感のある作家が、人に愛されぬわけがない。 これまで、批評家がなんと言おうと、啄木は生きつづけてきた。 「後世の史家の判断を待つ」という言い方があるが、史家などに頼るまでもなく、大衆は啄木の歌のなかにひそむ才能に感応し、その歌を守り続けてきた。 まことにものを書くものにとって、啄木ほど大きく、不気味で心憎い作家はいない。》 啄木は、決して自然主義文学の作家ではなかったし、写実主義の歌詠みでもなかった。 当意即妙に、最も絶妙な言葉を選択することによって、実にそれっぽい最高の歌を(あくまでも余儀として)瞬時にして詠むことのできた、心ここにあらず的なそういう「天才歌人」だった。 この年、 明治43年10月27日、長男·真一死去 明治44年3月7日、母·カツ肺結核で死去 明治44年4月13日、啄木、肺結核で死去 明治45年5月5日、妻·節子、肺結核で死去 その後、 長女·京子24歳で死去 次女·房江18歳で死去

更新日: 2022/02/27
7431a250e78aさんの感想

なかなか嫌味ったらしい文章だけど… 啄木さん…あんたも人の事言えないだろ…