「歩々到着」の感想
歩々到着
ほほとうちゃく
初出:「春菜 層雲二百五十号記念集」1932(昭和7)年5月

種田山頭火

分量:約1
書き出し:禅門に「歩々到着」という言葉がある。それは一歩一歩がそのまま到着であり、一歩は一歩の脱落であることを意味する。一寸坐れば一寸の仏という語句とも相通ずるものがあるようである。私は歩いた、歩きつづけた、歩きたかったから、いや歩かなければならなかったから、いやいや歩かずにはいられなかったから、歩いたのである、歩きつづけているのである。きのうも歩いた、きょうも歩いた、あすも歩かなければならない、あさっても...
更新日: 2022/03/03
cdd6f53e9284さんの感想

私はただ歩いております。 歩く、ただ歩く、歩くことそのことが一切を解決してくれるような気がします。 先生の温情に対してはなんとも御礼の申し上げようがありません。 ただありがとう存じます。 しかし、悲しいかな私には、まだ落ち着いて生きるだけの修行ができておりません。 放哉居士の往生はいたましいと同時に、うらやましいではありませんか。 行乞しながらも居士を思うて、瞼の熱くなったことがありました。 私などは日暮れて道遠しであります。 兎にも角にも私は歩きます。 歩けるだけ歩きます。 歩いているうちに、落ち着きましたならば、どこぞ縁のある所で休ませていただきましょう。 それまでは、野垂れ死にをしても、私は一所不住の漂泊を続けましょう。 分け入っても分け入っても青い山