「吉原百人斬り」の感想
吉原百人斬り
よしわらひゃくにんぎり

正岡容

分量:約19
書き出し:序章随分久しい馴染だつた神田伯龍がポツクリ死んで、もう三年になる。たび/\脳溢血を患つてゐた彼だつたから、決してその死も自然でなかつたとは云へまいが、兎に角直つて平常に高座もつとめ、酒も煙草も慎んでゐた丈けに、やはりその死は唐突の感をおぼえないわけには行かなかつた。死ぬ前日、彼はある寄席の高座で、必らずいつもは、「……云々と云ふ物語を、こんな一席の講談に纏めて見ました」かう云つて結ぶのに、その日に...
更新日: 2022/04/24
cdd6f53e9284さんの感想

落語に現れる吉原ネタというのを、あれこれと探していたら、この正岡容の「吉原百人斬り」の文章にたどり着いた。 神田伯龍という講談師が亡くなったときに、彼の業績を偲んで書かれた一文だそうだ。 この講談師の語りの芸を偲ぶという体裁で「吉原百人斬り」をなぞりつつ書かれた文章なので、必ずしも「遊興の里·吉原」についての十分な知識を得られるかどうか甚だ心許ないが、それでもゼロではないだろうと、とりあえず読んでみた。 文章は、講談の演目の「吉原百人斬り」なのだが、そもそも落語に「吉原百人斬り」を題材にとった噺などあるのだろうかという疑問が、まず湧いてきた。 まあ、落語のなかでの回想ということなら、過去に「斬った、斬られた」の事実があった程度の設定としてならあるかもしれないが、話の流れの中でリアルに刀を抜いて人を殺めるなんて無粋な場面は、江戸庶民の中から生まれた芸能という側面を考慮すれば、到底考えられない。 あえていえば、刀を振り回してリアルに人を殺める場面がある噺というなら、せいぜい「たがや」くらいだが、武士から無理難題を吹き掛けられた町人が追い詰められ、ほんの弾みで侍の首を斬り飛ばしてしまうのだから、町人文化·落語の立ち位置からは、いささかも外れていない。 「吉原百人斬り」という話は、金満家の醜男(疫病にかかって、ひどいあばた面になったらしい)が遊女に恋をして、それを知った遊郭のタチの悪い連中が欲得づくで彼をおだてあげ、甘言を弄して散々に貢がせて有り金をすっかり巻き上げ、さて、金が尽きればさっさとおっぽりだす、 その悪辣な不実に逆上した醜男が、吉原の花魁道中に乱入して騙した連中を片っ端からなで斬りにしたという実際にあった事件だそうで、なんだか現代でもよくある情痴の絡んだ刃傷事件、アメリカならさしずめ銃乱射事件というところか、 まあ、いずれにしても、このノリで暴発した大量殺人事件といって差し支えなかろう。 しかし、ただ「醜い」というだけで、そんな仕打ちをするなんて、随分ひどいと思わないか。 エドモン·ロスタンのシラノ・ド・ベルジュラックも同じような醜い男の話だったが、あちらの方はまだまだ救いというものがあったじゃないか。 最期にはほら、密かに想いを寄せていた貴婦人に気持が届いたんだから。そのあとですぐに死んでしまったけどね。 しかし、醜男が全身全霊を掛けて恋心を捧げた花魁八ツ橋とは、どういう女だったのだろう。 講談の彼女は、花魁の高いクライ(大夫)が欲しいばっかりに金のある醜男にすり寄り、悪意だけで騙すという設定だが、醜男が何でそんな女の見え透いた嘘にまんまと引っかかったかというと、初めて会ったときに、彼女にこう言われたからだ。 「あなたの顔には確かに痣はあるけれど、心の中にまで痣があるわけじゃないじゃないの」と言われコロリと参ってしまったのだ。 う~ん、商売女の恐ろしい手練手管だ。 いままで散々顔の痣が原因で劣等感に苛まれ、辛い思いもしてきたそういう男の最も弱い部分を巧みえぐってくるなんとも残酷で巧妙な甘言だ。 歌舞伎の「籠釣瓶」の八ツ橋は、こんなに悪くは描かれてなくて、ただ彼女の優柔不断さが、事態をどんどん悪い方へ進めてしまい、惨劇を招くことになる。 結局は、同じような惨劇になるのだから、やはりこれは、現実に厳然として惹き起こされたリアルな事件だったのだろうなと確信した。 以前、新聞に歴史的視点から見た遊郭の発生について、こんな記事が出ていたので紹介しよう。 ❮日本古代の社会は夫婦関係が緩やかで、夫婦外の関係を持つことに人々はおおらかだった。 性を介して対価を得る行為が、そもそも成り立たなかった。 だが、律令制の影響などで、男性の公的領域の支配が進む。 婚姻による男女関係が制度として強化されたことで、9世紀後半頃に初めて、性の売買が価値を持ち始めた。······ 江戸時代に入ると、幕府は江戸の吉原遊郭(後に移転して新吉原遊郭)をはじめ、大坂の新町、京都の島原などの遊郭を公認するようになった。 遊郭に営業の独占を認める一方、非合法の売春の取り締まりなどを任せた。 近世後期には、売り上げの一割を町奉行に上納する義務が課され、幕府の財政の一端を支える役割も担った。❯ なお、特異な例として長崎の丸山遊郭があげられよう。 ここでは、日本人以外に唐人屋敷の中国人や出島のオランダ人も対象とし、遊女が10年程の年季明けに近郊の実家に戻ることも多かったという。 なお、遊女は出産禁止が定法だったが、長崎の遊女だけは親密になった蘭人の子の出産を認められ、莫大なプレゼントのほか子とともに手厚い処遇を受ける者もいた。 唐人、蘭人側の国際交易での巨利を、長崎に還流する役割を果たしていた。 猥雑な庶民の「性欲」も遊郭によって整然と整理され、欲望文化の一画として制度確立されて、幕府の貴重な財源に組み込まれた。