創作は実体験のみによって、なされなければならぬのか?生きる事が表現する事と和辻は言う。感動や衝動、喜びなどを愛する者に伝えたいという高まる意志のようなもの。内から湧き出すエネルギーがなければならぬ。創作はフィクションではならぬようだ。「生きること」と「生きるために金を稼ぐこと」とは異なる。創作のための創作。太宰などの作品における少なからずある駄作の類が当てはまる。しかれば、創作とは対価を求めず、無償のボランティアにすぎないのか?和辻の「風土」の印税たるやどこへやら?自分の創作を世間に出すには、昔は編集者の厳しい目を通った出版という方法しかなかったが 現代では、SNSなどの手段がある。但し、SNSはボランティアである。その意味では人に伝えたいというインパルスのみで構成された「創作」と言えるかも知れない。 〔以下、私の創作〕 現在、過去、未来を弁証法的に考えることはできないか?つまり、過去というテーゼがあった事実はデカルト的に言っても疑いようがない。しかし、現在は過去に対してアンチテーゼと言えないか?過去の不幸と今の不幸は全く状況は同じか?もっと不幸か少し幸せになったかのどちらかの変化があるだろう。あるいは、行く川の流れを方丈記的に考えてもいいだろう。現在をアンチテーゼと定義できれば、アウフヘーベンするだけだ!未来は高次の立場へ向うジンテーゼとなるのだ。