「医者と赤ン坊」の感想
医者と赤ン坊
いしゃとあかンぼう

中原中也

分量:約7
書き出し:午前からの来診患者が一先づ絶えたので、先刻から庭木に鋏を入れてゐた医者が、今居間に帰つて来た所だ。窮屈さうに、紫檀の卓に頬肘を突いて、今まで其処に自分のゐた庭に、障子の中硝子を透して集中しない視線を遣つてゐた。卓の上には西日が流れて、淡く塵垢さへ見られた。彼の肘の前にある灰皿の中の、喫ひ終つたばかりの喫殻から登る紫色の煙と、他の古い喫殻にそれが燃え移つて出る茶褐色の毒々しい煙とが、やゝもすれば彼の...
更新日: 2017/09/21
146af0e4e281さんの感想

長男が、何か良からぬ事をしたのだとおもうが、起床転結の理路整然とした文章にしては、最後の結論に、不甲斐ない思いでした。 作者は、2番目の主人のむすこをこの物語で登場させたのには、意味深長な面持ちを私は、かんじる。 1. 我が子が亡くなった。 息子と患者の子供に、自分の子供に対して、また患者の子供に対して何かしたいと思う切実な思い。 2. 医師の主人公の長男が、問題を起こした為に、子供たちに喧しいと言えない、長男の事で苦慮しているからだろう。 そんな4人の子供が、何だか可愛い そんな最中、亡くなった弟の事を思いだす。 長男に対してのやりとりから、私は作者が、主人公の医師の子供にたいする愛を読者に、伝えたいのだと感じた。 そして亡くなった弟の方は、父であり、医師である主人公にとって優秀な子供であったようだ。 だから、もちが詰まり死にそうな患者の子供を助けたい。 上述した事が、この物語の医師と赤ん坊で中原が、描きたいことなのですが、読む側としては何だか消化不良なかんじです。 例えば、最後結末が、わからない方が、感動する場合もあります。 人類が、滅亡の危機から救う勇者どうなったか分からないで、終わったからこそ、作品が際立つ事もあるだろう、 抽象的な例えを引合いにだしたが、作者はそういう事を表現したいのだろうが、演繹的に判断して食べ物食べて、死にそうだったとしても、悲しみと言うか、悲哀感が、読者の心に浸透しない。 なぜなら子供が、食べ物を喉に詰まらせる事は、日常的によくある事だからだ。 だから、最後の締めくくりもこうをそうしない。 しかし、発想は良かったと思う。 もう少し、医師の赤ん坊にたいする。思いや長男に対しての具体的な表現が必要であったのではないかと私は、思う。 医師としての誇りと、赤ん坊をきちんと見てないから、もちが詰まり赤ん坊が、死にそうなのに、母の同情を装う態度に、ずるさを覚え、冷酷になるのも人間、しかし、自分の体験を通して人は、成長するのだよと中原のもうひとつの意図に対しては、良かったと思う。

更新日: 2017/09/17
芦屋のまーちゃんさんの感想

中也は確か、自分の子供をなくしているのではなかったか?! 餅を喉につまらせたかは知らぬが、赤ん坊の描写が、至極客観的で、冷徹で感情というものが医者の側にない。 母親は罪悪感が全て。その子を勝手に生んで、勝手に殺してしまった母親の気持ち(主観)を医者(客観)と対比することによって表現している。