「国訳史記列伝」の感想
国訳史記列伝
こくやくしきれつでん

04 司馬穰苴列伝第四

04 しばじょうしょれつでんだいよん

司馬遷

分量:約15
書き出し:箭内亙による譯司馬穰苴《しばじやうしよ》は田完《でんくわん》の(一)苗裔《べうえい》也《なり》。齊《せい》の景公《けいこう》の時《とき》、晉《しん》は(二)阿《あ》・甄《けん》を伐《う》ち、而《しかう》して燕《えん》は(三)河上《かじやう》を侵《をか》し、齊《せい》の師《し》敗績《はいせき》せり。景公《けいこう》之《これ》を患《うれ》ふ。晏嬰《あんえい》乃《すなは》ち田穰苴《でんじやうしよ》を薦《...
更新日: 2022/03/21
3afe7923d6ecさんの感想

ついに史記列伝の「司馬穣苴」がアップされたか。 不運の名将だ。 なんといっても、列伝の四番目にあげられているくらいだから、むかしから、その人気の高さは当然だが、たぶん、その人気の高さのなかには、猛々しい武人であるとともに、卑しい身分の出のために最下層民の苦難もよく理解し、自分の食べ物を減らしても部下に分け与えたという逸話が大衆の心を動かしたのだろう。 それほど目端のきく武人だったから、人並みはずれた知略と明察ゆえに晩年には疎んじられ敬遠された、というか、むしろ恐れられ無視された惨憺たる失意の死が、大衆を惹き付けてやまなかったのかもしれない。 数々の武勲をたて、乱世を平定して、世に平和をもたらした功労者である武将たちが、平和の時代になれば、疎んじられるのは、世の常だ。 しかし、権謀術数を尽くして政敵を次々と葬り、革命後も為政者として権力の座に居座り、数々の愚策を弄して何千万もの中国の民を死地に追いやったタチの悪い狂人毛沢東の例もある。 まあ、本当のところは、広い中国大陸を逃げ回っているうちに戦争が終わってしまって、ご本人はなにもしないうちに、権力の方が懐に転がり込んできたというのが実態なのだから、革命家などと、チャンチャラ可笑しくて聞いてあきれるが。 そのあたりはスターリンと同じだし、そのあとを狙っているあの後継者たちも揃いも揃って狂人ぽいところは至極似ている、いずれにしても不気味で不潔な殺し屋たちだ。 愚民たちよ、分からないのか、もうこれ以上、やつらの嘘に踊らされて狂人に従うな! とにかく、この司馬穣苴、懐かしくて何度も読み返してしまった。名文だ。 読み返しているうちに、あることを思い出した。 穣苴が軍規をおかした莊賈を、軍規に照らして処刑する場面から、諸葛孔明の「泣いて馬謖を斬る」を連想したのだ、あの処刑とこの処刑とは、意味的にどう違うのかと。 軍規に違反した莊賈を前にして、穣苴は法務官を呼び寄せ、この行為は軍規に違反するかと確認してから処刑した。 そして、処刑した死体を兵たちに見せて、たとえ身分の高い者でも軍規に違反すればこうなるのだぞと示した。 兵たちは緊張し、弛緩していた雰囲気は一瞬で引き締まり、士気もあがったという。 諸葛孔明の場合はどうか、 馬謖が処刑された理由は、諸葛孔明の指示とは別の場所に陣をしいて、結局は、その判断の誤りのために自軍を全滅させてしまったことだ。 処刑する時に、ある武将から馬謖の命ごいをする者があった。 確かに命令には背いたが、馬謖のとった戦略も作戦のひとつで、あの判断自体は間違っていたとはいえない、死を賜るほどのことではないと。 しかし、馬謖は、命令に従い、それを違えた場合は、如何なる処罰も甘んじて受けるという一札をいれている手前、諸葛孔明も泣いて馬謖を斬ったというわけだ。 三國蜀志にはこうある。 「亮(孔明)政を為すに私なし、馬謖素より亮の為に知らる、敗軍に及びて、涕を流してこれを斬り、而してその後をあわれむ」 私情を抑え、如何なる者の、如何なる不正行為も、軍規に照らして、それが違反行為であれば、厳しく処刑し、その死体をオオヤケにして兵たちの士気を高め、そして、目下の者を慈しみ庇うことを決して忘れなかった武将、それが司馬穣苴だ。