武田泰淳の「司馬遷-史記の世界」の書き出しは、こうだ。 《司馬遷は生き恥さらした男である。》 挑発的で極めて強烈なインパクトのある書き出しだが、この言葉に出会ったとき、司馬遷のどこが「生き恥」なのか、考えてみたことがある。 ときは武帝の頃、 蛮族匈奴の征討にのぞんだ忠誠の武将李陵は歩兵わずか五千で、匈奴の精鋭八万の騎兵に包囲された。 敢然と応戦したのだが、ついに刀折れ矢尽きて李陵軍は全滅し、李陵は捕虜にされた。 その敗戦の報に接するや保身に走る官僚たちは、武帝の顔色を伺いながら李陵の降伏を非難したが、司馬遷だけは李陵の戦功をたたえて彼の立場を弁護した。 しかし、その弁護は同時に、李陵軍が李広利軍の別動隊だったことから、功績のなかった李広利をそしるものと受け取られ、武帝を激怒させた。 というのは、李広利の妹李姫が武帝の寵愛を受けていたからだ。 武帝の怒りをかった司馬遷は、腐刑(去勢)に処せられる。 かつて腐刑に処せられた者は元来生き永らえるべきでないと思われていた時代に、司馬遷は、あらゆる恥辱を堪え忍び、書き上げたのが「史記」だったのである。 屈辱的な刑により「行動」を封じられた司馬遷の心境を、伝記はこう伝えている。 「受けた恥辱の怒りと憤りは、理不尽な現実の政治を批判的にとらえる冷徹な姿勢と視点で、歴史の著述に専念させた」と。 優れた人間を忘却から救うことこそ、歴史を書く目的であると論じ、列伝にとりあげられるのは記憶に値する人物だけだ。 つまり、「義をもちてテキトウ(才気が衆人より遥かに優れているの意)己れをして時を失わしめず功名を天下に立つ」、これが列伝のテーマであり、儒家の形式的見方にとらわれることなく自在な視点から、任侠の徒、テロリスト、商人など、儒者からは非難されかねない悲劇の人物に対する興味と同情で、この列伝を精彩あるものにしている。 その反面、司馬遷の武帝に対する批判は厳しく、迷信に迷う武帝や、帝の意のままになる能吏や酷吏を過去の人物と比較してするどく指弾している。 この司馬遷の明解な視点は、後世に広く評価された。 例えば、こうだ。 「弁にして華ならず、質にして俚ならず、その文は直、その事は核、むなしくほめず、悪を隠さず、ゆえにこれを実録という」(班固)などと称えられた。 司馬遷が列伝の第一をこの「伯夷列伝」としたことからも、その姿勢は十分に理解できよう。 周の武王を諌めて聞き入れられなかった伯夷と叔斉が、周に仕えることを恥じて首陽山に隠れ、周の食べ物の代わりに薇(ぜんまい)を食べて餓死したという逸話である。 世の中の善人の運命について、さらにいえば、自己貫徹を理想とする武人の生き方の是非を問うもので、天道に対して深い懐疑をもらしている。 天道は、ついに頼むべきではないと。 しかし、天道がついに善に与しないものであるとしても、天道の存することはまた、疑いえない。 天道の是非を問うことは、神を失った人間の宿命というべきであろうと。 ゆえに、「天道是か非か」だ。 よく「天道親なし、常に善人に与す」という人があるが、これは人間が空しく天に期待している言葉である。 この言葉の通りなら、善人は常に栄えるはずではないか。 侵略者ロシアが栄え、ウクライナが衰退し、滅亡すれば、つまりそれが「天道是か非か」だ。