牧野信一
食い物を 拵えて 売れ行きを 固唾を 呑みつつ 一気一優 するのと どこら辺が どう 違うのか 解り にくい 賭けを 大真面目で 繰り広げる のだから やってることは 高踏的で 解らん 方が 悪いと 人の せい にでも しないと やっぱり 生き 抜けない。志半ばで 散っていた 同人も 死屍累々と 続くのだろう けど 一発屋も 辛かった だろうと 感じた。
同人誌というものが、作家として文壇に出るための一次審査のようなものか? 今では新人賞に応募するという正式手続きが存在するが、当時は文学青年達が集まり同人誌出版が当然のようだった。やがて大先生作家の目にとまり、絶賛されればそこから交流が始まる。書簡のやりとり自体が後世に作品として残ることも多い。 牧野氏の時代は能動的・主体的で文学的であった。今は受動的で形式的で大作家は生まれない環境だ。ルール通りにやっていたら文学は生まれない。 音楽の世界もそうだ。オーディションでデヴューした歌手とデモテープをレコード会社に持ちこんだ歌手や路上で歌い読けスカウトの目にとまった歌手の違いは主体性の違いだ。オリジナリティの差だ。