「イグアノドンの唄」の感想
イグアノドンの唄
イグアノドンのうた

――大人のための童話――

――おとなのためのどうわ――初出:「文藝春秋」1952(昭和27)年4月1日

中谷宇吉郎

分量:約29
書き出し:カインの末裔《まつえい》の土地終戦の年の北海道は、十何年ぶりの冷害に見舞われ、米は五分作か六分作という惨めさであった。豊作でさえ米の足りない北海道のことであるから、この年の冬は、誰《だれ》も彼も皆深刻な食糧危機におびやかされた。それにこの冬は、例年にない珍しい大雪であった。毎日のように、暗い空からは、とめどもなく粉雪が降りつづき、それが人々の生活の上に重苦しくおおいかぶさっていた。この雪に埋《うず...
更新日: 2020/12/15
19双之川喜41さんの感想

 「木は 魔女の 髪のように乱れ狂った」と言う 有島の カインの地に 暮らした 中谷の 炉辺夜話とでも言うべき 作品である。 完成度は 高く 恐竜映画好きは 楽しめるかもしれない。

更新日: 2015/04/07
f7b43e293f75さんの感想

科学の日進月歩により、現代の我々は地球の隅々までパソコン一つで見れるようになった。失われた世界の不存在というものはグーグルアースを使えば簡単に確認できる時代である。時々テレビで「未開の部族」なるものが取り上げられたりするが、あれは番組の演出であり、地球上では既に発見されていない未開の土地なるものは存在しないとされている。 しかし、映っていないということは果たして不存在を証明しきれるものなのか。科学的思考にとっては悪魔の証明という忌み嫌われる発想である。存在しないことの証明はできない。雪男は存在を証明できないということが不存在の証となる。動物学者の意見に異を唱えたとしても、存在を証明できなければ雪男は怪しい伝説にすぎなくなるのだ。 しかし、筆者は科学の範囲をそこまで狭量に押し止めようとする意図を持っていない。シーラカンスは発見され、古代魚がいまだに地球上に存在することを証明した。今や古くさくて、胡散臭い雪男の話だって、今はまだ発見されていない、という童心を持って接することも否定していない。科学的手法に瑕瑾がないとは言えないのだ。 我々はいまだに世界のすべてを知りはしていない。失われた世界だって、グーグルアースの目の届かない地底にあるのやも知れない。生きるものの持つこの想像力と好奇心は、科学の発展や戦争によっても圧し殺すことはできないのだろう。