「芋粥」の感想
芋粥
いもがゆ
初出:「新小説」1916(大正5)年9月

芥川竜之介

分量:約41
書き出し:元慶《ぐわんぎやう》の末か、仁和《にんな》の始にあつた話であらう。どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。——その頃、摂政《せつしやう》藤原|基経《もとつね》に仕へてゐる侍《さむらひ》の中に、某《なにがし》と云ふ五位があつた。これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと姓名を明にした...
更新日: 2025/04/19
43d1ac1c582fさんの感想

言葉遣いが難しい。それでも読みきれたので作者の技量が凄いんだと思う。

更新日: 2023/07/18
b4ce8f67856dさんの感想

平凡な男のささやかな願い。けれど雲上人はそう思わなかった。芋粥を飽きるほど食いたいとは出世をしたい、雲の上の立場に自分もなりたいという下剋上ともいえる宣言に聞こえたのではないか?文字通り飽きるほど食わせることで男のある意味夢を叶えてやり、同時に潰そうとした

更新日: 2023/04/04
たまやさんの感想

多くを備え持つ者には五位のような人たちの心は永遠にわからない。強きものと弱きものとの心のズレがせつない。 それにしてもああ芋粥食べたい。 志賀直哉『小僧の神様』とツートップをなす飯テロもの。

更新日: 2023/02/27
cbeb8d424306さんの感想

主人公の五位は馬鹿にされながらも動じないところが尊敬に値します。人それぞれ夢はちがいます。簡単には実現しそうもないのが人生の励みになっている。五位のように食べ物が夢も結構、いまの時代は何でも自分で作れるので執着は無いですね。人って面白いな!

更新日: 2022/05/10
609055e12335さんの感想

芥川作品は中学生と大学生の折熱中して読み耽っていたので、この作品も読んでいる筈だが記憶になかった。この物語の主題らしきものより、狐の存在が気になった。子供向け昔話のように狐が当たり前に人の言葉を理解して、しかも脅しに屈して言伝を実行するといった理解不能の行動が不思議だった。最後再び登場して芋粥にありつけるあたり微笑ましくもあった。

更新日: 2022/04/08
070120b06fb3さんの感想

飽きるほど〜〜がしたい、〜〜がほしい…という欲望は尽きないが、いざ手に入れてみるときっと彼と同じようになるのだろうなと思う。 飽きるほど休暇がほしいと思っていたときが案外一番幸せで、いざ長い休みを取ったり休職したりすると途端に何をしていいのかわからなくなる…そんな感じ…。 でもそれは飽きてからじゃないとわからないし、いざ飽きてしまってもまたしばらく経つと「飽きるほどの〜がほしい」と思うようになる(少なくとも私は)から、人の欲だなぁ…としみじみ感じてしまう。

更新日: 2022/03/25
cdd6f53e9284さんの感想

確認したわけではないが、この「芋粥」と「鼻」は、小学校の教科書に載っていたのか、弱年の頃から今まで幾度も読み返してきて、長い間、親しんできた作品だ、これほど身近に感じてきた小説も珍しいのではないかと思うくらいだ。 だからかもしれないが、この「芋粥」にしても「鼻」にしても、感想というか印象が、既成のもの(授業で一方的に教えられたか、他人の考え)で、自分でとことん考えたものでないような希薄さ、歯がゆさ、頼りなさが、どうしても付きまとい、拭いきれないでいる。 この「芋粥」についていえば、例えば「欲望が満たされる不幸」みたいな感想が自分の中に刷り込まれているのだが、どうもこれだけでは、しっくりこないし、そんなふうに「模範解答」みたいに簡単に言い切ってしまっていいのかという疑問もある。 例えば、主人公の五位があれほど欲していた芋粥をいやというほど饗せられ、さんざん食し、もはやもう一椀も吸えないまでに飽食し、「いや、もう十分に頂戴いたした、かたじけのうござった」という惨めな姿(芋粥ごときで、あのようにのう、オホホみたいな)を衆目にさらし笑いものになって、恥をかかされ、すごすごと帰ったあとの、五位のその後のことまで、果たして小説に書かれていたか、再度、読み返してみた。 こうだ。 《五位は、芋粥を飲んでいる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中で振り返った。 それは、多くの侍たちに愚弄されている彼である。 京童にさえ「なんじゃ、この赤鼻めが」と、罵られている彼である。 色のさめた水牛に指貫をつけて、飼い主のない尨犬のように、朱雀大路をうろついて歩く、憐れむべき、孤独な彼である。 しかし、同時にまた、芋粥に飽きたいという欲望を、ただ一人大事に守っていた、幸福な彼である。 彼は、このうえ芋粥を飲まずにすむという安心と共に、満面の汗が次第に鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。 晴れてはいても、敦賀の朝は、身にしみるように、風が寒い。 五位は慌てて鼻をおさえると同時に銀の提に向かって大きな嚏をした。》 そうそう、ここだ。 「芋粥に飽きたいという欲望を、ただ一人大事に守っていた幸福な彼である」と書いた後にすぐ続いて「彼は、このうえ芋粥を飲まずにすむという安心」を抱いたと書いてある、本当だろうか。 いや、確かに文面ではそう書いてあるが、自分は長い間、どうしてもそうは思えなかった。 五位が懲りたのは、芋粥そのものではなく、自分の密かな嗜好を他人に知られてしまい、「そんな詰まらないことがお宅の希望なのか」と嘲笑され、揶揄のネタにされ、衆目の前にさらされて面白半分にからかわれただけで、考えてみれば、誰がどんな希望を抱こうが、大きなお世話なのであって、揶揄される謂われなど些かもないのだと五位は考えなかったのだろうか。 五位にとって、このささやかな屈辱的な事件が、芋粥への嗜好を断たれ、まったく諦める理由になると短絡する思考の方が、随分と脆弱だ。 どんなに詰まらないものでも、そしてそれをどれほど馬鹿にされ、嘲笑されようとも、それが五位にとって「誰憚ることのない望み」である限り、放棄する理由などどこにもなく、あんな揶揄は自分の気持ちとは無縁な場所で起きた出来事で、唾棄すべきものと決然と考えることもできる。 それを考えれば、この小説の弱々しいストーリーの終わり方は、いかにも無力に見える。 人目を気にして体裁ばかり取り繕う、自滅に繋がるいかにも芥川龍之介らしい締め括り方だなとも感じた。 実は、最近、松浦理英子の「欲求の病」というエッセイを読んだ、慧眼だ、これで積年の「芋粥」について抱いていた疑念が、一挙に氷解した。 要旨はこうだ。 《昭和の時代によく「多淫症とよばれる女性は実は不感症で、快感を味わいたいがために何度となく性行為を試みる」というような説を見聞きした。 まことしやかな理屈ではあるけれども、快感がないなら性行為に執着しない女性の方が多いのではないかという疑問を拭えなかった。》 そこで、ある学説を紹介する。 《欲求とその欲求を実現した時に得られる快感は、それぞれ脳内の別の領域、別の回路で生じるという。 欲求が強ければそれだけ強い快感がもたらされるわけではない。 快感の大小にかかわらず欲求は起きるし、欲求が起きて高揚した状態そのものに動物も人間も取り憑かれ依存に陥る。》 だから、 《不感症の女性だけではなく、ちゃんと快感を得ている女性であっても、欲求に依存していれば性行為を繰り返すわけで、問題は快感の有無ではないのである。》 つまり、五位の「芋粥を吸いたい」と熱望する欲求は、たった一度だけの満腹の快感で済まされるようなシロモノではなく、繰り返し生み出される性欲のように、芋粥への欲求は体内から尽きることなく湧き上がり、痛い経験から学習した通り、今度こそは一人こっそりと隠れて芋粥を心ゆくまで味わい楽しむに違いないが、それが美味かどうかとは別に、芋粥を求める欲求を性欲のごときものとして書き切れれば、芥川龍之介も死なずに済んだかもしれない。 将来、タイムマシンができた折りには、時空を超えて、芥川龍之介くんにアドバイスしてあげようと思っている今日この頃であります。

更新日: 2021/03/13
d8e4b3c71298さんの感想

芋粥を食べたくなりました。 いや、もしかすると、今食べたいと言っていても実際にいざ目の前に芋粥が出ると食欲が失せてしまうのかもしれません。五位のように。 夢というのは叶う直前が一番甘美なのかもしれません。 叶ってしまえば夢は無くなりますから。

更新日: 2021/01/19
7015a4684970さんの感想

話はもちろん面白いのだが、芋粥に限らず芥川作品は時代考証が丹念に調べ上げられており読むだけで教養が増える。 芋粥、作ってみよう。

更新日: 2021/01/10
19双之川喜41さんの感想

 大きなくさめをした五位は それと共に 芋粥に飽きたいという欲望も 飛んで行ったのでは。 話だけで 持たせているわけではないことが 良く解る。 非芸術したての 芸術であると感じた。

更新日: 2020/09/21
e5b87af218a8さんの感想

美味いものを食べるためには、金や労力を惜しまない現代人は多い。五位はそれをあさましいことと気づいて芋粥が食べられなくなった。少なくとも今の日本人は食に固執することが卑しいことだとは思わない人が多い。

更新日: 2020/05/05
ねぎとろさんの感想

何か楽しみがあるとき、実はそれを達成することよりも、それを夢見ることの方が楽しいのではないか。夢が叶った喜びは、かけた努力の分だけ大きくなる。夢への期待は、想像の余地の分だけ大きくなる。他人の圧倒的な力によって、努力することなく急速に夢が叶えられてしまったとしても、それでも夢は夢なのだろうか。そんなことを考えながら、私は野狐と待ち合わせ、五位をいじめた者を懲らしめる旅に出る。

更新日: 2020/04/25
07859be9c7dbさんの感想

よろしい、 若き時代に読んだ、思いより、歳を重ねて再読すれば その味合いが、強く心を打つ

更新日: 2020/03/03
2d6865d770afさんの感想

なんとも言えない味わいです。

更新日: 2019/08/30
a57edd1066caさんの感想

利仁という大金持ちが、貧乏人の五位の小さな夢を簡単に打ち砕いて、内心からかいながらも、もっと頑張れと発破を掛けてるような話ともとれる。

更新日: 2019/06/08
f730ce676ba9さんの感想

意味が分からない

更新日: 2018/04/23
4c8f895f04bcさんの感想

欲が満たされるという不幸。 ある欲が満たされればすぐに次の欲が芽生えてくる自分の器の小ささを感じた。

更新日: 2017/11/29
ふみえさんの感想

ひとつ大事にもっていた夢を、欲望を叶えてしまうのは、それをなくしてしまうのと同義なのかもしれない。 五位のこれからはいっそう惨めになりかねないところに悲哀を感じるが、利仁はまたきまぐれに情けをかけるのではないだろうか、と思わせるところはひとすじの光にもみえる。

更新日: 2017/09/18
4b8479568a9aさんの感想

やっぱり飽きますよねえ

更新日: 2017/09/08
あんさんの感想

幼い頃に似たような経験があり、思わず笑ってしまいました。私の場合は芋粥ではなくそうめんでしたが。 マヨネーズでもあればもう少し食べられたかもしれませんね。