魯山人さん、あんただったのか、小林一茶の人物像について、変な「無欲」だとか、「飄々」だとか、グロテスクなイメージを世の中に広めたのは。 小学生のときに初めて一茶の俳句を習ったときも、教師は同じようなこと(一茶が無欲で限りない善人だった)を確信ありげに語っていて、それがまるでモノノケに憑かれたような真剣な表情だったので、まんざら冗談でもなさそうなのには、マジ驚いた記憶がある、というよりも、ほとんどドン引きしてその話を聞いた。 自立して生きている人間に、そんなトンマな奴がいるわけがない。 そんなこと、わざわざ考えてみなくたって、小学生にだって分かることだ。よほどの御人でない限りね。 全面的に他人に依存しなければ生きていけない特別な人たちなら、それは、はなしは別だ。 でも、一茶は、どうみても、そうじゃなかった、りっぱな生活者であり、後世までその名を残した達者な俳人だ。 それが、アタマに「馬鹿」のつくほど正直で、無欲で、純真な心を失わなかった人だったと、口から唾を飛ばして力説する教師のアホ顔(ヅラと読みませう)を、まじまじと見せつけられて、あきれてしまった。 ただ、「純真な心」については、あとで説明するけどね。 確信をもって力説したまう教師の顔を見ながら、子供心に、きっと、こういう人なら、サンタクロースだとか革命だとかを、なんの疑いもなく簡単に信じることができるんだろうなと、憐れむというよりも、むしろ羨ましくさえ思ったくらいだ。 まあ、正直、内心では、一種のヒステリーというか、ヤバい変質者だとの認識も、少しはあったと思う。 ニッキョーソというあぶない言葉の響きとともにね。 最近、頻発している教師の児童に対する「わいせつ行為」とか「痴漢行為」報道を聞くにつけ、「やっぱ、そうだったろう」という思いを強くしている。 ロシア軍の侵略と民間人への無差別虐殺の惨状を前にして、憲法9条さえあれば他国から攻撃されないなんて公言して憚らない、アタマの温かいあの手の政治家と同じだわな。どうかしてんじゃないのかと思う。 清廉潔白を標榜している共産主義者にしては、いやにデクデク肥満していて、そのうちゲップでも出しそうなテイタラク、自分は、平和な日本にドップリとつかって守られているくせに、よくも恥ずかしげもなくヌケヌケと言えるなと感心するよ、 あんたには、思ってもいない平和の心配の素振りをするよりも、自分の糖尿病の心配をしていた方が似合っているよ、 ただ、あの間抜けなコメントを世界に向けて配信されないかと心配でならない、世間知らずのあいつらのために世界の笑い者になるのは、もうたくさんだ。勘弁してくれ。 だから、いずれにしても、教師なんて、子供にとっては、害悪以外のなにものでもないってことだわな。 毒親毒教時代というわけか。 じゃあ、訊くけどさ、一茶のあの俳句ってなんなの、とくると思うけど、もちろん、その作家が独自にあみだした「作風」というやつだ。境地といってもいい。 芭蕉なら芭蕉、蕪村なら蕪村、富安風生なら富安風生、優れた俳人ならみな必ず有しているもので、句をみただけで、あっ、あの人の句! とすぐに分かる、あれだ。 だから、一茶がカエルさんと遊んだり、スズメさんとお話したからといって、逝っちゃってる人とか早とちりするのは大きな誤り、一茶におけるカエルさんとの距離感は、古池のほとりに佇む芭蕉のそれと大差ない。 まあ、一茶の場合は、その他に「処世術」っていうのも、若干、入っていたかもしれないが。 ただ、作風に沿った公式に当てはめられたカエルさん以外のなにものでもないということは変わりない、過剰な期待と妄想を伴う拡大解釈は、だれよりも一茶自身が迷惑な話だと思っているはずだ。 一茶は、魯山人がしきりに信じたがっていたようなウブなあまちゃんでは、必ずしもなかった、その証拠の面白話をひとつご披露に及ぼう。 タイトルは「一茶の遺産相続」、江戸史研究の高橋敏の書いた論考だ。 《一茶といえば、三歳で実母に死別、継母に虐められた継子の境遇に育ちながらも、幼児や雀·蛙の小動物にまで愛情を注いだ好好爺のイメージが先行する。 ところが真逆な人間像が露になる遺産相続が実在する。 15歳で故郷北国街道柏原宿から江戸に出た一茶は、24年後の享和1年父弥五兵衛の重病を知り帰郷して異母弟弥兵衛と家産を二分割する遺書を取得する。 この間一茶は生家を放擲し、もり立てたのは、働き者の継母さつと弥兵衛であった。 四半世紀も江戸で気ままに暮らし、突然現れて重篤な父からせしめた遺書を突き付け、分割遺産を迫る一茶に弥兵衛とさつは怒りを爆発させる。 近所親族はもちろん、宿住民は、皆弥兵衛家族に同情し、暴力沙汰には至らずとも、村八分同然に無視した。 それでも一茶は諦めず相続を履行する契約証文を取り付け、最後は江戸訴訟をも辞せずと脅かし、粘りに粘って51歳の文化10年柏原宿の屋敷の真半分を留守中の家賃元利まで上乗せしてむしり取って帰住した。 一枚の遺書が堂々罷り通っていく柏原宿はどうなっているのか。 その根源は、慶長三年石田三成が策した豊臣秀吉最後の賭け、上杉景勝会津転封による徳川家康包囲作戦に遡る。 三成が直江兼続と断行した北信濃の兵農分離、村には百姓だけが残り、家来に連なる中間·小者らすべてが会津に去った。 北信濃から武士はいなくなって百姓だけの読み書き算用の契約文書がものいう村が誕生し、一世紀後、嫌われ者一茶でも遺書にものいわせる、兄弟が絶縁に至る今どきの遺産相続と見まがうばかりの根生えの近代が生まれていた。》