もう何年も以前になるが、始めてこの物語を読んだときには、衝撃を受けた。 富農の家の長男に生まれ、その幼少期には、甘やかされ放題に育てられた成長期に、それまで溺愛してきた父親と祖父と母親を相次いで不慮の事故で失い、娶った嫁も親類の男と密通したあげくに出奔したころから、少しずつ常軌を逸した行動が目立つようになって、やがて精神に異常をきたし、家族の留守に自分の家に付け火して、その燃え上がる火を見て男はのたうち回って狂喜する、なんとも凄惨な物語だ。 読後感は、ひとりの男の不運の生涯を何百ページも費やして書かれた小説を読み終えたあとのような心地よい疲労と、鬼気迫る切迫感をも感じた、 一言たりとも無駄な言葉や言い回しもない、殺気とでも言うしかない隙のなさだ。 この世に最大級の賛辞があれば、是非とも「それ」を使いたい。 まるで、これはヒッチコックの映画「レベッカ」のラストシーンのようではないかと思った。 手元の飯田蛇笏の紹介文には、こうある。 《俳誌「雲母」を主宰して僻地より俳壇を睥睨し、爾来倦むことなき句道精進の成果と重厚謹厳でしかも温情あふれる人格によりあまねく斯界の衆望をにない、俳壇の最高峰として世を終わる直前まで、「金扇の雲浮かしたる冬の翳」「誰彼もあらず一天自尊の秋」などの病床吟をおぼつかない手跡にとどめて巨匠の名にふさわしい気根を示している。》 蛇笏の随筆集には、「穢土寂光」「土の饗宴」「美と田園」「田園の霧」というのがあるらしい、ぜひ読みたいものだ。 死病得て爪うつくしき火桶かな
よくわからなかった。
肉付けすれば長篇小説になり得るある男の一生を読者に行間を読ますべくここまで削れたのは、俳人蛇笏の成せる技なのか。
20170306読了。「坊やん」とは。また読み直そう。
この俳人が、かの如く凄まじきかたりをするものか?
わけがあるような、ないような。淡々と続く一人の男の境遇を、淡々と眺めている。 主観のようなものがあまり感じられず、語り手は随分離れたところから、ただ淡々と綴っている。 鮮やかなワンシーンを切り取って(おそらくはそれが題となって)、きっとまだ続くであろう光景のその後の続きに、読者が思い馳せるような終わりでもって締め括っている。人それぞれに、受ける印象、拾う光景が大分異なりそうな一作。
何のメッセージなのか? わからぬ。 ともかく、不幸が連続する家である。 死か発狂か? そんな時代性を写実したのか? わからぬ!