学生の頃に初めて目にした「自然主義」という字面には、青い山河と向き合うような爽やかさを感じた。今となっては沈滞、煩悶、邪推、すれ違い、煮え切らない恋愛だの家族問題だの……というイメージ。この主人公も例によって、憂鬱な恋愛にケリをつけたがっている。 何となく満たされないのは、自分が虚構に非日常(日常には訪れない破局や解決)を求めているからだと思う。
プロットというほどのものではないけど 男が 愛人と その女友達と 3人で 映画を 見にでかける。最近 愛人の態度が なんとなく でかくなったような 気がしてきて 男は愛しているのに 彼女が不幸にさえならないのなら この恋愛から逃れたい とは思っている。表面を繕っている 交流が なかなか 面白いと思った。
自然主義作家の書く小説を読んでいると、なんだか共通した印象を持つことに気がつく。 徳田秋声のこの短編などがいい例だ。 ごく濃密な関係で結ばれているはずの相手の行動や考えがさっぱり理解できず、どんどん疑念に囚われてゆく、気まぐれで移り気な女の一方的な行動に振り回されるように描かれるが、さにあらず、身勝手な男の側の裏切りや背信を伏せたうえで、女の側のリアクションだけを書くとなると、こんな感じになることを近松秋江の「黒髪」を読んで実感した。
私は、この本を読んであと、二つ仮名を知らない、読んでしたり、寝てしたり