「北原 白秋」 巻頭に 白秋の 白黒写真一葉あり。 白秋は 処女詩集『邪宗門』を 私費出版した。犀星は それを 読んで見たけど 何を 表象しているのか 分からなかった。それでも 書きためた 詩集を 送って見たら しばらくして 白秋の 詩集の雑誌に 掲載された。後に (犀星の 原稿は みみずのようで 字は 字になっていないけど 詩は 詩になっていた)と 白秋から 明かされたという。 「高村 光太郎」 肖像-白黒写真あり。 光太郎の夫人 智恵子は 意を決して 尋ねて行った 犀星をに対して 数回にわたり 門前払い くわす。 それにも めげずに ようやく 会うことは できた。犀星は 投稿先を 紹介してもらいたいという 下心があったにせよ 偉大な 詩人として 尊敬の 念を 抱いていたと 言う。 「萩原 朔太郎」 写真あり。 朔太郎は 会話中にも 恥じらいを見せ 視線を 相手に 合わせることは ほぼ 無いような 内気な人にも 見られたけど 何回か 結婚し 歳の差婚にも 猛進突破を 敢行するような 側面も 在ったようだ。 「釈 超空」 写真あり。 超空は 生涯 妻を 娶らなかった。美少年 嗜好があり 養子縁組みを 婚姻届の 代わりにした ような 形跡がある。彼の 詩は 古い 言葉を 使っても 巧みな 言葉に 溢れていた。 「堀 辰雄」 写真あり。 掘は 数編の詩を 遺しただけで あるけれど その小説を ほぐして見ると 詩が キラキラに 光って こぼれたとする。高峰秀子 香川京子などの 高名な 大女優連が 掘の 小説を 愛読し 軽井沢の 掘の山荘を 訪れたり したとされる。散文から キラリと 溢れ落ちる 詩味に 魅了されたのかも しれない。 「立原 道造」 肖像写真あり。立原は 信州の 追分村の 油屋という 旅館で 生涯の 夏の大半を過ごした。あるとき そこで 火事にあい 豚小屋の 豚の悲鳴で 火事に 気がつき 格子(こうし)を 破り 一命を 取り留めたという。府立三中では 芥川龍之介-堀辰雄などと 同窓であった。 「津村 信夫」 肖像写真あり。津村の父親は 法学博士であり 室生犀星とは 一家をあげて 交流が あった。不治の病に 犯され 若くして 亡くなった。多磨霊園の 一画に 眠る。 「山村 暮鳥」 肖像写真あり。(風景)は 三章二十七行にわたる 詩であるけど 私は こんなのも ありかなと 半世紀以上も 前に 度肝を抜かれたことを 鮮明に 記憶している。(ほとんどの いちめんのなのはなの 繰り返しだからである。犀星は 一人の 詩人(ぼちょう)のために 四回(冊)も 序を 書き記したという。犀星は 牧師でもあった 山村の 敬虔な 信者の 一人でも 在ったような気がした。 「 百田 宗治」 肖像写真あり。犀星は 大正末期に 花札を 引くことに 夢中になり 百田は 年上の妻と 共に 足繁く 田端から 巣鴨に 通ってきた。百田は 勝負において 手固い 打ち手であった。萩原朔太郎や たまに 芥川龍之介も 加わって 数年にわたり 花を 引くことに 没頭した。 「千家 元麿」 肖像写真あり。千家は 生涯にわたり 父親から 支援を 受けていた。ために 引け目を 感じたためか 極貧生活を 送り そのせいか 貧乏を 傍で 見ておられないためか 友達が 多かった。それらは 武者小路実篤-長与善郎-岸田劉生などである。家庭内を 描写した作品には 心打つものが 多い。 「島崎 藤村」 肖像写真あり。藤村は 年令差のある 姪と 結婚したので 話題を さらった。嘘を つかない人として 独身者が 籍を入れて 何が悪いと 肩入れをする。また 藤村は 原稿の 依頼を 断る作家としても 編集者のあいだで 名を馳せた。 あとがき 中原中也-宮沢賢治-中川一政については それらの 個人の生活が 不分明であり 執筆を 断念せざるを 得なかったという。