中也(ちゅうや)は 勧進帳(かんじんちょう)を 観(み)たいと 思っていても ぐずぐずと 先延(さきの)ばしに していたあげく 漸(ようやく)く 重い腰(こし)を 上げる。それでも 空腹(くうふく)のあまり 途中(とちゅう)て゛劇場(げきじょう)から 出てきてしまう。中也(ちゅうや)は 「夢を 見ようとも 見まいとも しないで 私は 夢を 見てしまう」という。夢中毒(ゆめちゅうどく)が 詩に 昇華(しょうか)するのかも知れない 想った。
知識のひけらかしではなく、自分を素直に表す手段が、自然に「詩」であった。他人の目は気になるけれども…と考えた起こりが、勧進帳を観る観客たちや、銀座の群衆のなかに身を泳がせたからこそだった。 他人や社会があるから、却って自分を再確認できるものと、印象的な出来事だったのだろうな。
映画を観に行って観客がうるさいとか、腹が減ったが金がないとか、そういう感覚は昔の人も同じだったのだと感じ、共感しながら読めました。 後半の夢とは他の人でいうところの空想のなのでしょうか。詩人とはこういう人なのかなと思いました。
人間味がすごいある。作者はまるで、現代の大学生のようだと思う。 文がすごく素直で良いな、中原中也好きになった。