買った一匹の鸚鵡の鳴声から前の飼い主を想像する。それは小さな子供のある心優しいお母さんのいる家庭。日本の良き家庭である。それは作者の優しい心の投影であろう。
さすが、詩人でもあるだけあって、とても優しげで情緒豊かな作品だった。愛らしさ。楽しさ。おかしさ。そして人間の心の切なさがなんとも言えずよかった。そして又、前の飼い主がロオラを手放した理由が、私 の想像のように悲しいけれど慈愛のあるものであってほしい。
途中から何か事件にるのではないかとドキドキした。
素敵でした。 鸚鵡の言葉からの空想と言ってしまっていいかもしれませんが、過去に鸚鵡といたであろう見知らぬ家族の人格と感情をここまで考え込んでさらに心配までしているのは、やはり文章を書く人だからこそかなと感じ面白かったです。 パパママ呼びに対する強めの意見も、鸚鵡の色々な感情の「オカアサン」を繰り返し聞くうちその言葉への愛着も相まって出てきたのかなと思い微笑ましく感じました。 最後の一文がよく響きました。
ロオラの鳴く声から、飼われていた家庭環境を辿る描写が、まるで探偵小説の事件を究明しているようで面白い。 しかし話がほぼ鳥についてだというのに、タイトルが『オカアサン』というのは一度、不釣り合いに思えた。 それらしきものは、作中に書いてあった主張、子供は親を「パパ、ママ」より「お父さん、お母さん」と呼んでくれ、という著者の思想が目立つ。 けれどもこの話のタイトルは『ロオラ』でもいいのではないか、そう思えるほど著者の主張は唐突で、かつ、三、四ページほどしか綴られていない。 全文読み終えてみると私は、ロオラの飼われていた家庭にいた女性のことがタイトルの『オカアサン』ではないかと感じた。 これは鳥の話ではなく、鳥を通して見た『オカアサン』の話だったのだろう。 どことなく切ないこの話は、一気に読んで、ロオラに対する主人公のしみじみとした男性らしい愛着を味わうことも楽しい。
私はパパ派だったので、作者の外国語呼び否定の意見に少しうーんとなる部分もありましたが、後半すごく良かったです。どこの家でも愛される鸚鵡[オウム]のロオラは可愛い。
文の終わり方が切なくて良かった 犬は弟、猫は友達、鳥は恋人ですね~ 動物によって距離感が違います 突然のパパママ呼び批判には少しだけ同意します……友達の前でうっかり呼んで恥ずかしい思いもしましたし 成人近くなったこの頃は、お母さんお父さんと言い換えるのも億劫で「ねえ」で済ませています
すごくわかる!おもしろかったです。 一緒にいると、過去も気になりますよね。
おもしろい! 勝手に人の過去を想像して作ってしまうことありますよね。それがぴったり行った時そうとしか思えなくなります。