「神州天馬侠」の感想
神州天馬侠
しんしゅうてんまきょう
初出:「少年倶楽部」1925(大正14)年5月号~1928(昭和3)年12月号

吉川英治

分量:約1735
書き出し:序私は、元来、少年小説を書くのが好きである。大人《おとな》の世界にあるような、きゅうくつな概念《がいねん》にとらわれないでいいからだ。少年小説を書いている間は、自分もまったく、童心《どうしん》のむかしに返る、少年の気もちになりきッてしまう。——今のわたくしは、もう古い大人だが、この天馬侠《てんまきょう》を読み直し、校訂《こうてい》の筆を入れていると、そのあいだにも、少年の日が胸によみがえッてくる。...
更新日: 2021/11/08
d215fd647883さんの感想

世に言う天目山の戦いによって滅亡した戦国大名の雄、甲斐源氏武田氏。 敗戦の責任者たる亡き総領勝頼の伝説的遺児、武田伊那丸を巡る人々の織り成す物語。 史実には逆らえないから、いくら伊那丸が奮闘したところで、武田家は復興することなく物語は終わる。吉川の言う『少年小説』とは言えど、その壮大な夢が果たされることはない。さらに実質的な主人公は竹童(と蛾次郎)であり、伊那丸は物語のきっかけを作り、周りの人々の心を支える役割を担う存在(現に伊那丸が復興の志しを変えるところで物語は幕を下ろす)。つまり武田家の動きは背景であって主題ではない。歴史小説ではなく、あくまで少年小説なのである。 少年小説らしく(?)『敵』『味方』の図式がはっきりしているように見えて、実はそれぞれの陣営がそれぞれの正義(己れ)のために動いている。一時的に『敵』になる陣営にもどこか見どころのある人物がちらほらいて、彼らが最後に一つに纏まる大団円は見事で、先に書いたように『最初の目的(正義)』は果たされないにも関わらず読後感は爽やかである(この終わり方は同じく吉川描く某剣豪の作品でも見られる)。 終盤まで一見宙ぶらりんになっていた蛾次郎の行く末については、残念ながら途中で展開が読めてしまったが、少年ながら結構な『ワル』をしてしまった彼にさえ救いがあったことは、この物語の明るさの象徴のように感じた。 長い物語ですが、どなたにでもお薦めしたい作品です。