幼い頃、母の実家の番頭さんが、たまにしか会わない私に「こいさん」と、呼んでくれていた事を想いだし、懐かしい気持ちで読みました
関西弁の語感に 明るいわけではないので どうしても読みが浅くなるのは 仕方がないかもしれない。 谷崎は 王朝文学の雰囲気を 忍び込ませているような 気はした。 作者の想定した 読み手の中では 私は 相当はずれものであることも自覚した。
細雪は有名なので読んでみようと思っていて、合間の時間にちょっとずつ読んでいるがすぐに上が終わりそうだ。書いてある時代は随分昔だけど内容は今の時代の日常とたいしてと言うかほとんど変わらない印象で、文豪の文学というと堅苦しくて読みにくいものだと思っているが、全然そんなことはなく日常の日記みたいなものに感じてそういう意味でいい読み物でした。ただ会話の言葉が一字一字ちゃんと読もうとすればするほど読みにくい。
中巻と下巻を楽しみに待っております
このころの慣習がわかり、面白い。
大阪弁の船場言葉、亡き祖母が船場に近いところの商人でしたので、なまり懐かしく読み進めました。テレビで聞く大阪弁よりゆったり柔らかく上品な印象です。また、姉妹の美しさ、色気が和装や洋装の着こなしに表れていて、その辺りも同じ女として読んでいて楽しかったです。
続きが気になり一気に読み進めました
日本の四季おりおりの情緒と、四姉妹の織りなす物語が何重にも輻輳し、恍惚とさせられる。
谷崎潤一郎は昔から好きだが、細雪は読んだことがなかった。 私も出身は大阪で今は東京に住んでいるのだが、使われる関西弁に懐かしさを覚えた。 方言というのは、文学に使われる香辛料のようなものだと思う。無いならないで問題ないが、少しあれば情緒がある。しかし、多すぎるのは問題で鼻につく。 関西弁は特に話者も多く、現代ではテレビで聞く頻度も高い。だが、すべからく方言は、本当にその地方の出身でなければ、微妙なニュアンスを使いこなすのは難しく、下手であれば似非だと批判されることもままある。 だが、本作の関西弁は量こそ多いもののあくまでこの時代の雰囲気を再現するに留まっている。それはやはり、谷崎自身が関西に住んでいたからでもあるだろう。 だが、それだけではない。話される関西弁が現在のものとは少し異なっているのだ。また、物語自体がどこか物悲しげなのもあって、関西弁が持つ賑やかさ、五月蝿さが、むしろその悲しさを引き立たせている。私が懐かしさを感じる所以もその辺りにあるのだ。
場面の描写が詳細でテンポも良く、気持ち良く読める。
谷崎潤一郎の『細雪』は雪子、悦子、妙子ら商人の娘の見合い話で、親の東京転勤で、大阪本町から東京の狭いアパートに転居する。東京暮らしに馴染めない雪子は関西に戻って、お見合いを続けるが、意中之人には未だ巡り会えない。昭和の大阪弁を駆使した谷崎の『細雪』は会話文が大阪人には馴染安く心地よい。