読みながらもしかしてこの人昌蔵さんではとは思ったが。 写真も履歴書もない時代では、4~50年も経つと誰だかわからなくなるものかもしれない。 まあそれだけ妻が若すぎて愛情に欠けていたからだろうが。
心と体が相手を求めて結婚しても 子が巣立ってしまうと今度は相手に求めるものが違ってくる。寿命が伸びた現代では介護は避けて通れない問題だ。夫婦でも相手の上の口下の口までお世話できる相手かは結婚した当時にはまだ判らないのがほとんどだと思う。
割れた柘榴をこの身に擬えられるとは、なんと薄気味悪いことか。ましてや齢17の幼妻にとっては恐怖でしかないであろう。 幼妻の気を引くために、公金横領を財源として散財を繰り返すような精神的虚弱体質とでもいうべき男が、何故か終盤育ちの良いジェントルな老人となって主人公の前にひっそりと現れる。この男が真に夫君であるかは明らかにされていないが、もし無関係の老人だとすれば、この作品は全くの駄作だ。 逃げた夫の置手紙を即座に焼いた主人公が長い人生経験を経て夫の深い愛情に思い至り反省する。それは男の希望であろうが、しかし全く女を描けていない。 女の年代に沿ってあれこれと上っ面を書いて見せるが、まるでどこかで聞いた話を継ぎ接ぎしているようだ。山本周五郎にはがっかりだ。 とにかく女はそんなことで女々しい男を見直したりはしない。せいぜい憐れむくらいが関の山、万一再び家に入り込もうものなら即座に叩き出す算段をするだろう。まあ周五郎も実はその辺はよく分かってて直ぐに死なせたのであろう。 これは女々しい男が惚れた女にはこうあって欲しいと願う物語。いや、ないんで、ナイナイ。 酷評したが、文章は美しく読ませる小説ではある。現実と違うから小説なんだと思えば、読める。
いつも「周五郎」は、感動させてくれます。
彼の作品は涙を誘うな。