「趣味の向上」の感想
趣味の向上
しゅみのこうじょう

――青年学生のために――

――せいねんがくせいのために――初出:「興風」1924(大正13)年12月

会津八一

分量:約7
書き出し:「それは意見の相違だ」と互に頑張りあつて、相下らない。こんな事は世間の政治家の間などには、珍らしくも無くなつて仕舞つたが、「趣味の相違」といふ捨科白を美術や文學などに心を寄せる人々との間にも折々聞かされるので、其度毎に私はいやな思ひをする。世の中がデモクラチックになつて行くに從つて、意見の相違も重大さを増して來るであらうし、文藝上の事も畢竟趣味の相違に、あらゆる議論が歸着するかもしれぬが、それは究...
更新日: 2022/03/11
3afe7923d6ecさんの感想

この会津八一の文章をざっと読むと、 「まず、実生活を楽しむ生活者たれ、その中からこそ人を感動させる芸術は生み出すことができる」と述べているように読める。 本当だろうか。 これでは、会津八一が生涯を貫いた芸術観と、あまりにも掛け離れすぎていはしないか。 副題の「青年学生のために」の持つニュアンスに拘束されて、八一の激情は極力抑えられ、ソフトな表現になってしまったのではないか。 この文章の中で、彼の心情と信条を微かにでも感じることができる一文があるとすれば、これだ、 「生活そのものを楽しみ、その中に趣味を見いだし、時として他人のためにその楽しみを作り出す一種崇高な、厳粛な、真面目な、積極的な態度」 この随筆にあって、まさにこの一文だけが、孤高の人「会津八一」に最も近づき得たものと言えるかもしれない。 会津八一の生涯を紹介する記事で、自分が最も愛している書き出しから始まる文章を、ここに残しておこう。 《若いときのただ一度の失恋から生涯を独身で通した八一は、不羈·狷介であったゆえか、いとも険しい抵抗と反発の道をみずから選んでいる。 学問においても、歌や書の創作においても、つねに非正統をかざして、時流には否定的であった。 ただ、美に対する崇高なまでの憧れこそは、八一の生涯のテーマだった。 昭和31年秋、孤高の生涯をまっとうして、姪の蘭子に看取られて死んだ。 墓地は新潟市西堀通の瑞光寺。 弟子たちにより分骨された別墓は、東京都練馬区関町の法融寺にある。》 奈良の風光と美術をこよなく愛した八一は、「南京新唱」や「鹿鳴集」の絶唱や、「渾斎随筆」の文学的散文を生み出している。 また、書においても中国金石碑銘の該博な知識に基づき独自の境地を開く。 歌も書もその学殖に裏打ちされ、芸術と学問が渾然一体となっていた。

更新日: 2021/11/28
e4c0eb387665さんの感想

Vita sine literis mors est.文學無き生活は死也。然しながら、その危険な謬見に対する警句も忘れない。このような文人が日本にあった。言葉は浪費を続け廃棄される。暮らしも貧しく乏しく他者の姿が見えず罵り排除し殺す若者が増えつつある。社会の空隙。訳知り顔で取りすぎる吾等。模索するうちに人生の扉が閉まっていく。もう少し響き合う人生があってもいいのでは?打算と見栄や国家規模の詐欺などではなく。