「秋月先生の古稀を祝して」の感想
秋月先生の古稀を祝して
あきづきせんせいのこきをしゅくして
初出:「鎭西餘響」1893(明治26)年5月

小泉八雲

分量:約3
書き出し:秋月老先生、——『世界に於ける最も丁寧なる人々』の禮儀を知らない私、それから上品にして美はしい種類の挨拶の言葉のあるその國語を知らない一外國人である私は、私の恭しき賀状を御送り申上げる場合に、私の云ふべき事が云へないやうに感じます。即ち日本語には、尊敬すべき年齡に相當する愛情、尊敬、及び信任を、私共の粗い西洋のどの國語に於けるよりも優美に表はす多くの美しい言葉があると私は考へるからです。そこで先生...
更新日: 2022/02/25
cdd6f53e9284さんの感想

小泉八雲の肖像写真を見るたびに、不思議に思っていたことがある、どれもうつ向いて目を伏せているか、あらぬ方を向いている。 ずいぶん不自然な写真ばかりだな、という印象だった。 そういえば、どの集合記念写真にしても、皆がそろって正面を見据えているのに、八雲ひとりだけが横を向いている。 何故だろうと、それも不信に感じていたひとつだ。 確かに明治初期の写真などで、その手の写真を幾つも見た記憶があるし、もっと遡って維新の志士や花魁の集合写真にもそういう写真はあった。 おそらく、左右両端とか真ん中に写る人とか、いずれにしても特定な位置にいると、写真に魂を抜かれるとかなんとか、その手の迷信があって、それを避けるためのつまらない決まりごとだったかもしれないが、しかし、八雲の場合はそんなものじゃない、という確信もなんとなくあった。 そして、最近になって、あることを知った。 漱石が自分のアバタ面に劣等感を抱いていたということと、八雲が片眼を失明していたこと、たぶん、漱石と同じように、そのことに劣等感を感じていたであろうということも。 八雲の愛読者からすれば、そんなことも知らないなんて、ずいぶん迂闊な話だなと言われそうだが、本当だから仕方がない。 それに我ながら相当な悪趣味だと思うが、八雲の正面写真をひと目見たくて画像検索してみたが、やはり、ない。 正面を向いた写真はあっても、左顔面を片手で覆っているか、せいぜい銅像くらいだ。 さんざん探しておいて、いまさら負け惜しみでもないが、そんなもの、見てどうするという気もしないではない。 だいいち失礼だ、お前が言うな。 さて、この「秋月先生の古稀を祝して」は、八雲作品を愛読する者にとっては、揺るがせにできない大切な一文だ。 秋月先生とは、秋月悌次郎のこと。 八雲が熊本の中学校に赴任した時には、漢文の教師として既に在籍していた。 会津藩の出身で漢学に造詣が深く、藩校の日新館でも教えたが、のちの戊辰戦争の際に、白虎隊として多くの教え子を失った。 京都守護職松平容保に従い会薩同盟に関わったが、戊辰戦争に敗れ、会津藩降伏の時は、副軍事奉行として降伏の使者に立った。終身禁固の刑を受けたが、後に恩赦で許され、後半生を教育者として過ごしたという人物だった。 そこで上記の熊本の中学校となるわけだが、八雲にとってほんの昨日まで戦火をくぐってきたような両刀をたばさんでいたサムライと近づきになり、その何事にも悠揚迫らぬ茫洋とした人格に魅せられて、ほとんど最上級の尊敬の域にあることが、この祝状からも伺うことができる。 みずからの隻眼を恥じるなど愚かしいことだと、秋月翁から学んだのではないか、そんな気もする。 ちなみに、日本で娶った八雲の妻·小泉セツも松江藩の重鎮の娘、世界を放浪したのちに得た八雲の不倶を抱えた劣等感の安息の場が、サムライの魂のすぐそばにあったことが分かる一文である。