小泉八雲が、東京帝国大学に雇われて英文学を教えていたときの卒業生に贈ったスピーチ、 「あなた方が出世する頃には、自分はあまりにも歳をとってしまい、この世には、いないかもしれない」なんて、気弱で、どこか寂しさのただようスピーチだ。 それで思い出した。 八雲は学生たちにとても愛されていて、講義も一字一句筆写され、のちに学生たちの手で出版されたらしい。 熊本の高等学校の教師時代の講義の筆写ノートも発見されたという新聞記事も読んだことがあるから、余程生徒から慕われていたのに違いない。 そんなふうに愛された八雲が帝国大学を退職したあとに、入れ替わりに漱石が英文科の教壇に立った。 それはまるで漱石が八雲を追い出すような形だったので、学生たちから漱石は恨まれ、冷たい目でみられたと伝えられている。 そうそう、その前に八雲が熊本の高等学校の英語教師を退職したあとに就任したのも漱石だった、まるで後追いの奇しき縁だ。 小泉八雲と漱石は、似通ったところがあり、よく対比して語られることが多い。 生後まもなく里子に出された漱石は、さらに塩原家の養子になったことが後年の金之助の性格形成に大きなダメージを与え、さらに創作にも多大な影響を及ぼしたのだが、八雲も幼くして母と生き別れ、大叔母に育てられた。 また、漱石は天然痘のためにアバタが残り容貌にコンプレックスを抱いたのに対して、八雲が片眼を失明して生涯女性に劣等感を抱いた点も似通っているし、身長も共に160センチほどしかなく、背の高い西洋人のなかでは威圧された。 八雲の後任として、東京大学英文科の教壇に立った漱石は、学生たちの不評を感じていて筆子夫人に愚痴っている。 「小泉先生は英文学の泰斗であり、また文豪として世界に響いた偉い人であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりの者が、その後釜に据ったところで、到底立派な講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない」 ちなみに、高等学校時の月給は、八雲が200円、漱石が100円だった。