雙喜 あてのない 汽車旅行で 出会った 小さな とりとめのない 出合いは ふと 下車した 演芸場で 見かけた 小芝居にも似て 意味が仕込まれているような いないような 日常からは 非日常の すき間にすこしだけ 落ち込んだ 感じもあり 滋味漂う 得がたい 文章と 想った。06:52
実は「みんなの感想」が滅茶苦茶酷評なので読んでみた。 自分的には、わけ分からんという程ではなかったが、確かにこの青空文庫で読み馴れている重厚な小説群からすると、ずいぶん軽い印象は否めない。 仮にこの作品がごく最近の小説というなら(事実、ごく最近の小説であることをあとで知った)この程度の中途半端な軽さは、現在ならごくありがちな軽さの範囲内のものだし、特に稚拙な作品という印象でもなかったが、しかし、「どこかで、読んだことのある話だな」とは、まず思った。 例えば、こうだ、 この小説が、仮に「筒井康隆の作品だ」と断定的に言われたら、おそらくアタマから信じてしまうかもしれない(当然脳裏には、「乗越駅の刑罰」を連想する)、しかし、ちょっと訊き方を変えて、「筒井康隆の作品と思うか」と問われたら、「ちょっと違うかなあ」と答えるに違いない。 そして、逆にいえば、その程度の差異しかない、ということでもある。 ただ、純文学の隘路を敢えて逸脱しても「起承転結」にこだわる自在な筒井康隆の無手勝流に対して、未知の作家·福永信という人のこの作品は、純文学の「高尚な」雰囲気を保つために、定石どおり無難な、もっともらしい「ぼかし」で逃げることを忘れていない。 それが、青空文庫収録作品群(明治から昭和初期に掛けての小説)の中に置いたときに、飛び抜けた「稚拙と無力」とを感じさせたのだと思う。 しかし、残念ながら、もはや、「それ」も今となっては古びてしまったのだ。 この小説がつまらないと感じたのは、たぶん、率直で素直な反応だった。 それは奇しくも現代の日本の文学の状況(面白くない)を徐実に現しているということでもある。 文学の形式における新しさを求め続ける限り、それは常に、表現した端からたちまちに褪色してしまう運命を引き受けなければならない、ということだ。 ファッションの世界で、いくら新しさを競っても、さらに「更新される新しさ」に勝てるわけがない。 その非情な「更新」にどうすれば抗することができるか、皆苦労しているところだが、時おり盲点を衝かれたようなベストセラーなどが出現すると、意外に簡単明解な答えであることに愕然とする、 しかし、その「盲点」が絶妙にその時限りのもので、他には通用しない極めてレアな時局対応事例なために、転用するほどの学習の余地を持たない、という側面がある。 書いているうちに、どんどん論点がずれてしまい、自分でもどうしていいか分からない。 いい加減、誰か止めないか❗ という気持ちが、きざし始めたのであろうか。
素人が書いたの?ってくらい面白くない。 タイトルの意味がわからんし、落とし所も微妙。
つまり…その……???
ナンセンスといえばいいのでしょうか、不思議な読み味でした。
変な話だ!