「夏」の感想
なつ

〔私が貧乏で〕

〔わたしがびんぼうで〕初出:「詩人時代」1935(昭和10)年8月号

中原中也

分量:約5
書き出し:私が貧乏で、旅行としいへば殆んど夏にしかしないからかも知れない、………夏と聞くと旅愁が湧いて来て、却々「夏は四季のうち、自然の最も旺んなる時なり」どころではない、なんだか哀れにも懐しいといつた風で、扨この夏はどうしようかなと思ふと、忽ちに嘗て旅した何処かの、暑い暑い風景が浮んで来て、おもへば遠く来つるかなと、そいつた気持に胸はふくらむで来るのである。ゆらりゆらりと、柳が揺れてゐる、時々校庭を通り過...
更新日: 2024/04/17
19双之川喜41さんの感想

 芸も無いことを書いて失敬とあるけど これで 多分 些かの 実入りがあるのかもしれないので 慶賀に 堪えない。対して 感想文などは 金には ならないこともあり 果てしなく 陳腐ことを 書きなぐるのが 常習である。いわく 白犬(尾も白い) 。いわく黒犬(尾も白くない)。さすが。最後の一行に感心した。等等。気楽に やるのが 一番である。

更新日: 2022/03/23
3afe7923d6ecさんの感想

中也は、夭逝の天才詩人などではない。 三十歳で亡くなったのだから、「夭逝」には違いないが、まるで生きる希望のように愛していた長男を、病気で失ったその翌年に、あとを追うように命尽きた。 もうこれ以上生きる意味を見いだせなかったからだろう。 その絶望の果ての死が、自殺などではないだけに、なおさら痛ましく感じられる。 中也のいかなる文章を読む時も、それが書かれた日付が気になって仕方がないのは、そのためだ。 この「夏」という極めて簡素な随筆のなかにも、中也の繊細な「いちべつ」を見つけることができる。 中也は、今年の夏は何処に旅行に行こうかと思いをめぐらせているが、もとより金のない貧乏旅行のこと、行き先は限られている。 そのひとつが、中也の中学の時の恩師がいる兵庫県の御影師範学校だ。 夫婦で赴任している静かで穏やかな生活が、さりげなく描かれているのだが、どこか寂しい。 こんな感じだ。 「これは嘗て旅行の途立ち寄った兵庫県は御影師範の記憶である。 私の中学の時の修身の先生が、今でもその師範の倫理の先生をしていて、其処の、学校の役宅にいる。 先生には今以て子供が出来ず、先生は夏はアツアツパーを着て読書をしたり午睡をしたりしてをられる。 奥さんは、退屈さうだ。 だが夕方が来ると、先生ははだしになって家のまはりや庭に水を撒かれる、奥さんはかひがひしく夕げの仕度をされる。 私も水撒きの手伝ひをする。 井戸からつるべで水を汲むのだが、冷やしてある水瓜にあたらないやうに、つるべ槽を下ろさなければならない。 暫時水瓜を上げておいてからすればいいのだけれど、先生は今日のみならず、何時でも水瓜を冷やしてある時は、冷やしたまんまで水を汲まれるのが常らしいから、一寸それを変更してはならないものの如くである。」 この老夫婦の穏やかで緩慢な日常を、中也の哀しみの眼差しが覆い尽くしている。 「先生には今以て子供が出来ず」と。

更新日: 2021/04/22
b53e79cfe52cさんの感想

作者は夏が来ると旅愁が湧くと言う。停車場のプラットフォームの何気ない風景、夏の豊前長洲駅から彼の追憶が続く…。

更新日: 2021/04/21
496b7f29770aさんの感想

ボコボコではなく、「ポコポコした土手」という表現が何とも愛らしく感じ、また、夏の何とも言えない暑さが伝わってきた。下車してみようと思いつつも、結局、用事も下車も出来ぬまま、そのまま夏が過ぎ去るような気がした。

更新日: 2018/08/21
B58齋O桜O奈さんの感想

夏は人を駆り立てる。人間とはそういう生き物なのだろか?今も昔も変わらない。凡人の夏を上手く表現してるとおもいます