オーウェル当時の英国にて、あらゆる勢力、団体、主義にファシズムだという非難が敵対勢力によって浴びせられる。要するに、自身の敵対者、潜在的抑圧者だと言っているに過ぎない。「クソ野郎」と呼ぶのと変わらないだろう。 こうした語の使用法は現在も全く改善されていない。従ってオーウェルの小論は全く古びていない。 だがどちらかと言うと、現在あるいは我が国のメディアでは、ある団体をファシズムだと言うよりは、安倍首相をヒトラーだと言うように個人を世界に認められたフリー大罪人ヒトラーと同一視して非難する方を好むようである。全く国内のある特定の民族を600万人も収容所に集め虐殺した日本の首相が現代にいるのなら教えてほしいものではないか?全く軍事的な力によって政権を奪取した首相が現代にいただろうか? こうした連中の悪徳は、ただ自分の気に食わない相手をクソ野郎と呼べばいいものを、何かヒトラーだのファシストだのと呼ぶことによって、自身を正義の代弁者であるかのように見せようとする姑息さにある。自分に都合のいいように正義を一時的に持ち出すやり方は、昨今のポリコレニスト共と全く同じ手口だ。彼奴らは自身の利益の最大化に不都合な正義を無視する。こうした現代の正義が置かれている状況を見たなら、ソクラテスとアリストテレスもきっと涙を流すだろう、衆愚に弄ばれる正義の姿態を見たならば。
一党独裁の国家主義、全体主義がファシズムであり、好戦的である。だがそれだけか?要するに、あらゆる思想は暴力的で傲慢で残忍性、残虐性を持っている。思想が権利であれば実現のためには闘争が義務である。その意味では反ファシズムも闘争であり、ファシズム的要素が内在する。 闘争力が衰退するとすればそれは数的問題からだ。「いじめ」を例にとればわかる。クラスの39名のファシストと一人で戦うことが果たしてできるか? あるいは、「銃規制」の問題でも、持つと持たぬとどちらが安全か? マジョリティとマイノリティ。 世界的には日本はマイノリティ国家のはずだが、かつてはファシズム国家と認識されていたようだ。 今はどうだろう?