徹した個人主義とは人の世話をしなければ人の世話にもならないという事らしい。慶応大学で教えを受けた永井荷風氏をそう評した追悼記事だ。
荷風を師と仰ぐ佐藤春夫の追悼記事だ。 掲載されたのは、神港新聞紙上、日付は1959年5月4日とある。 独り住まいの荷風の遺体が発見されたのが、5月1日の朝だったというから、この追悼記事が発表されるまでには、少しだけ時間が経過していたことになる。 おそらく、1日の夕刊から死亡の経過やら、追悼記事なども報道されたであろうから、佐藤春夫もこの追悼文を書くにあたって、それらの記事をひととおり目を通したに違いない。 自分は以前、新藤兼人監督の「墨(さんずい付き)東綺譚」を見たのだが、ラストの荷風が絶命する最後のシーンに違和感を持った。 それは、家具など何もない暗く殺風景なひと部屋で、なにやらマフラーのようなものを頭に被って、息絶え突っ伏している荷風の遺体があって、その傍には書き散らされた原稿用紙と、それから火鉢や食器、そして生活臭満載の食べかすらしきものが散乱していて、まるでゴミ屋敷のような惨状を呈していた。 これが荷風の最後なのか、 いや、そんなはずはないだろう、なにしろ文豪荷風だぞ、 たとえ、荷風が、すこぶる付きの人間嫌いだったとしても、それを手掛かりにして想像を広げたのだろうが、これはあまりにも飛躍のしすぎではないかと訝ったのだ。 そこで、「荷風 死」と入力してネットで画像検索してみて驚いた。 映画のシーンそのままのリアルな荷風の遺体の写真が存在している。 あの映画は、単にこの写真を忠実に模写しただけのことだったのだ。 そして、この写真がそのまま当時の新聞にも掲載されていることが、あとで分かった。 警察が現場検証するために報道陣を排除する直前に撮ったとかいうスクープ写真だそうだ、解説にそう記されていた。 文化勲章までもらった文豪が、野垂れ死に同然のこうした無惨な写真が存在していること自体、驚くべきことだが、そのうえで、もう一度、佐藤春夫の追悼文を読み返してみた。 しかし、佐藤春夫の追悼文には、いささかの動揺もみとめることなく、いや、むしろ冷静すぎるくらい淡々と荷風に会ったときの最後の思い出を書き綴ったうえで、この追悼文をこう結んでいる。 ❮僕のお目にかかっているころから用心深い先生はいつも遺書と身元の明らかなものを懐中して「いつ、どこで行き倒れになってもいいようにね」と悲しい戯れをいっていたものであったが、平素から用意の遺書は毎年、年のはじめに書いておくということであったし、こんども必ず死後のことなどこまかく記された何かがあるのではないかと思われる。❯ 無惨な写真のことなど、ひとことも触れてないどころか、突然の死にも驚いた気配さえ感じることはできない。 野垂れ死になど、かねてから知れたること、いまさらなんだという想定内の醒めた趣きさえある。 あたかも、遺書とおぼしきものなら、すでに「断腸亭日乗」に記されていたではないかとでもいういうように。 おそらく、これか。 ❮今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。 近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂宇との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。 余死する時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の煢域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ❯ いやいや、墓など無用なりという一文もあったはず。 ❮余死する時葬式無用なり。死体は普通の自動車に載せ直ちに火葬場に送り骨は拾うに及ばず。墓石建立亦無用なり。新聞紙に死亡広告など出す事元より無用。 葬式不執行の理由は、御神輿の如き霊柩自動車を好まず又紙製の造花、殊に鳩などつけたる花環を嫌うためなり。❯ なるほど、鴎外の志を継いで、文学者としての純粋さを頑なに守り貫こうとしたその高潔さは認めることに躊躇はないが、火葬されて骨も霧散してしまえば、この世から影も形も消し去って俗世との縁のすべてを絶てると思っていたであろう荷風の意に反して、現実は、残酷にも、あの痛ましい最後の骸(ムクロ)を写真としてこの世にとどめ、何時でも誰れでもが見ることの出来るネット上に保存され、半永久的に世界の晒し者になっているこの現状を知ったら、荷風はどう思っただろうか、 これで本当によかったのか、荷風くん