パリの産院に 独軍による 砲撃によリ 着弾したため 産室が 大きく 破壊されて しまった。たまたま その時 臨月を 迎えた 産婦二人が ほぼ同時に 出産し 新生児のうち 独りだけが 生き残る。母親たちは 本当の 母親が どちらか 判明しないまま 共同で 子育てをはじめる。静かな反戦が 隠し味として 仕込まれてあり 詩味の 薄さを 補ってあまりあると 感じた。
フランスの産院がドイツ軍に砲撃され、産まれたばかりの赤ちゃんが一人死亡する、その部屋には妊産婦が二人入院していて、死んだのがどちらの女性の赤ちゃんなのか分からない。 現代なら証明する科学的手段は幾らでもあるだろうが、当時にあっては、そうした技術はまったくない。 自分の子供だと主張する確固たる根拠もないのだから、同じ意味で可能性を否定して諦める確信も持てない。 どちらにしても確固たる証拠がないままに強引な主張を押し通して子供の獲得に打ってでれば、同じ確率で子供を失なうリスクも引き受けなければならなくなる。強引に親権を独占する賭けに出て争い、もし負ければ親権を失うことになってしまう、それでは元も子もない、それだけは絶対に避けなければならない。 ということで、この二人の女性は、内心忸怩たる思いで共同親権を選択した、というか、そうせざるを得ない立場に追い詰められたというラストなのだが、しかし、これではまるでゲーム理論です。 この小説のストーリー自体に「追い詰められた」ようなどん詰まり感をもってしまうのは、この小説がただ図式的なだけ、どの人物もまるで将棋の駒のように配置されているだけで、人の親なら、本来、子供の獲得のためにもっと必死になってこの膠着状態を打破しようと努めるはずのところが、一向に苦悩などせず、それどころか、そもそも感情の起伏自体が欠落しているとしか思えない人物設定なので心底あきれた。
第一次世界大戦当時、産院で爆弾が破裂、赤ちゃんがどっちの女性の子か分からない。結局二人のお母さんが育てることに。今の世でも取り違いが問題になることがあるが非常に重い問題だ。