「老嬢と猫」の感想
老嬢と猫
ろうじょうとねこ
初出:「新青年」1927(昭和2)年6月号

ルヴェルモーリス

分量:約13
書き出し:その老嬢は毎朝、町の時計が六時を打つと家を出かけた。それは最初の弥撒《ミサ》を聴くために、近所の教会堂へ出かけるのだが、彼女はまず注意ぶかく戸じまりをしてから、どの頁も手垢によごれて隅がぶよぶよになった、古い祈祷書をしっかと抱えて、小急《こいそ》ぎに街を通ってゆくのであった。教会堂へつくと、殆んどがら空きな脇間の祈祷台に膝まずいて、両手を組み合せ頸をふりふり、牧師の声に合せて低声《こごえ》でお祷《...
更新日: 2022/04/02
cdd6f53e9284さんの感想

信心深い潔癖症の老嬢(老いた処女という意味で使っているらしいので、便乗)が、ペットとして厳しい管理下のもとに飼っていた猫が、主人の意に背いて反抗したために手酷く虐待した結果、逆に反撃されて、老嬢が散々な目にあうという物語。 最後の老嬢の様子は、どう見ても怯えと恐怖で気が変になってしまった感じなのだから、これはやはり「惨憺たる物語」なのだろう。 しかし、なぜ老女が、これほどまでに酷い目に会わねばならなかったのか、自分の潔癖症から、あまりにも厳しく飼い猫を拘束しすぎたからだろうか、 結局のところ、猫の発情の前では、老嬢の倫理観に基づく潔癖症や監禁などでは押し止めることができず、到底無力だったわけだが、恐怖で気が変になるまでのダメージを受けねばならなかった反撃の直接的な原因が「猫への虐待」だったのかというと、たぶんそれは「直近」ではあっても「直接」ではなかった。 もし仮に、老嬢が「猫の淫ら」を許すことができなかったおおもとの倫理観が神への信仰に根差したものなら、毎日早朝に教会に行ってする祈祷の、惰性のような素っ気なさは何だと思わざるを得ない。 それは結局、彼女の自分の頑なな生き方を正当化するためだけの方便にすぎないし、猫への虐待も自分の支配に従わないことに対する極めて身勝手な、信仰とはまったく無縁なところでなされた、ただの見苦しい暴力でしかない。 どこやらの国でも、自分の意に従わない子供を「しつけ」と称して虐待し、死なせてしまい、その死体を床下に埋め隠して素知らぬ顔を決め込み、厄介な子供を埋めたその上で、和気あいあいと夫婦生活を続けていられる冷血な親がいたくらいだから、この物語は、日本人にとっては理解不能というほどのものでもあるまい、情けないことにね。 ウクライナの戦禍を逃れてきた若き母親が幼児を抱えて、泣きながら「命にかえて、この子を守る」と語っている写真を見た。 なんなん、この差?

更新日: 2022/03/31
19双之川喜41さんの感想

 処女自慢の 老嬢は 飼っている雌猫に 自分と同じ 生活態度を 強要したので 猫に 誘いの 甘美な 鳴き声を 聴かせまいと 閉じ込めたりした。いくらなんでも 猫権の 侵害なので 猫だって 頭にきて 反抗的な 態度に出た。猫の 仕草の すくい上げ方が うまいと 感じた。