中谷宇吉郎は、この文章で多数決と芸術の評価と価値について、小林秀雄の感性の独自性を引き合いに出して懸命に説いている。 しごく真っ当な話なので、なにも異論はないのだが、この小論の書き出しが、小林秀雄と鉄斎の絵を鑑賞したところから始められている。 そこで思い出した、 筑摩書房の現代日本文学大系の小林秀雄集の中には評論「鉄斎」と「鉄斎の富士」の二編が収録されている。 まさか、この「小林秀雄と美」の書いている時のことだとは思わないが、この文章には、小林秀雄が、鉄斎と鉄斎の作品をどう感じたかまでは言及されていないので、あえて「鉄斎」と「鉄斎の富士」を鉛筆片手に読んでみてみた。 ここぞという箇所があれば線でも引こうとおもったのだが、まるで取っ掛かりというものを掴めなかった。 まあ、これが小林秀雄らしいといえば、らしいし、当方の理解能力不足を棚にあげて「韜晦」などと言う積もりもないが、中谷氏が、懸命になって小林秀雄を庇う気持ちも分からないではない。 だって、小林秀雄の微妙な分かりにくさについては弁解しているのに、小林秀雄が鉄斎をどう解釈したかまでは触れていないし、たぶんそこまでは言及できなかったのではないかと愚考した次第。