1955年 ハリウッドでの 映画賞授賞式で ディズニーは 4番目の賞牌を 受け取り「今年は 私の 引退の年でしょうか」と 言った。宇吉郎は 団栗や赤い実が 宮沢賢治に 話しかけるように ディズニーは 詩人であり 実業家でもあるという。 「白雪姫」や「ピーターパン」には 同じように 絵がかける 画工が 必要であり 芸術の 大量生産化を 実現したという。「砂漠は生きている」という映画では 山猫が 転がり落ちる名場面は 私も 鮮明に 覚えているけど カメラマンの 執拗な 取材が 背後に あったことを 今頃 知った。 「ビーバーの谷」「水鳥の生態」中編記録映画では 音楽と シンクロさせた 仕上がりは 評判を呼んだ。著者は 映画撮影の 技術にも 長けているので 指摘も 鋭い。 詩人の心・企業家の辣腕・科学者の頭・温かい人間愛などを 兼ね備えたディズニーは ある意味 チャツプリンを 越えていると 私も 想った。
子供のときに、ディズニー映画「砂漠は生きている」を見て、子供心に砂漠ってこんなにも美しいものなのかと、ショックを受けたことを懐かしく思い出した、 いや、もしかしたら、カラー映画ってこんなにも美しいものなのかという、そっちの方の衝撃だったかもしれない。 いずれにしても、日本人の誰もが、アメリカの科学技術の先端性と高度な映画技術、そして、もちろん、スケールの大きな自然観に、ただただ、まばゆいものを感じた当時の空気感が、この中谷宇吉郎の論調の高揚感を見ても十分に窺い知ることができる。 そして、この文章によってはじめて知ったことだが、この映画に投入した膨大な資金をはじめ、多くの人材と物量を投入してこの作品が作られたこともよく分かった。すごいことだと感嘆した。 そして中谷宇吉郎は、そのままの勢いで、さらに論を進め、図らずもこんなふうに書き継いでいる。 砂漠に生息する多くの動物たちの動作を多くのカメラを駆使して逐一撮影し、撮り溜めたその膨大なフィルムのなかから、当初に考えておいたストーリーに適合するものだけをチョイスし、つなぎ合わせて一本の作品を作ったのだという。 それまで多くの箇所でやたら感心し続けてきた中谷は、ここでもまた、フォードの大量生産の効率性を応用した優れたディズニーの映画作りだと、やたら持ち上げて感心している。 こんなふうにだ。 「フォードは人間を機械の一部として使うという着想を立てて大量生産工業を樹立した」、それをディズニーは応用したのだと。 つまり、ソフトとハードの効率化ということか。映画で? 中谷には悪いが、ここでちょっと引いてしまう、映画は自動車じゃないぞ。 しかも、あらかじめ人間がでっち上げたストーリーに、膨大なフィルムを、まるでジグソーパズルのように嵌め合わせて、101匹ワンちゃんじゃあるまいし、嘘の動物の世界をマコトしやかに子供たちに見せるなんて、どうなんだ。あん? この部分は、学会から批判されたことがある。 批判ついでに、もう少し、「闇の王子ディズニー」といわれている所以、 《ディズニーは、亡くなるまでウォルト·ディズニー社の要所には、黒人と女性を雇い入れなかった。 彼の制作した作品のほとんどすべてに、さまざまな民族に対する彼の白人中心視点からなる白人至上主義と人種差別および男尊女卑的な性差別があった。》 ミッキーマウスやミニーマウスでは、アフリカの野蛮な猿のように描かれた黒人を差別的に扱う民族侮辱的な漫画を出版し批判された。 そして、最後は、この一文で締めくくっている、 《ディズニーの偉大さは、チャップリンをつぐ、あるいは、チャップリンを乗り越えた芸術家であるように思われる》と。 なるほど、チャップリンとディズニーのふたりを並べれば、すぐに思い当たる共通性なら、確かにある。 1940年代から1950年代にアメリカで吹き荒れた赤狩りの渦中にあって、卑劣な密告によりチャップリンは売国奴の汚名をきて国外追放の憂き目にあい、ディズニーは疑わしい映画人を片っ端から密告し、その功績を評価されて、FBIのチクリ屋に昇格した。 科学者·中谷宇吉郎の限界を露呈した一文 でした!!!
宇吉郎さん自身も映画どころかプロダクション作ったんだよなたしか