静かで何も起こらない老夫婦の会話の一コマ。明確なテーマは見出だせないものの、滋味のある掌編。自分の理想の老い方を具現化したのかもしれない。
荷風は 情痴作家と よばれたりした ことも 有ったようで そのような 先入観で読むと 本作品は 些か毛色が 違うようでもある。子ども達と 共に暮らすことが 無くなって仕舞った 老夫婦の寂しい夕食風景を 夫が 火鉢に両手をついて起ち上がるまでを 記す。哀感溢れる 上質な文章と想った。
官民に奉職し終え、息子娘たちも皆無事送り出して、まずまず成功の人生ながら晩節の寂しき無為の日常に到達した夫婦の夕餉の風景。 確かに小津映画の如き会話の枯れた心地良さはある掌編だが、しかしこれで終わりとするのは実に勿体ない。ここから何か始まりそうな気配があるにもかかわらず。 文体も書かれる情景も作風も何より人生哲学も全く異なりはするが、もしこれが漱石の手になる一遍だったとすれば、恐らくここまでを「一」として、「八」辺りで終わる中編に仕立て上げたのではないか、と思う。 荷風にしては手抜きなのか、脱力なのか、或いはこれこそ荷風らしいのか。不勉強にして結論し難いが。そういう意味の惜しい一編であると思う。
子供が巣立っていった老夫婦の日常、小津安二郎の映画を見ている様な感覚にとらわれますね。