「噂ばなし」の感想
噂ばなし
うわさばなし
初出:「勲章」扶桑書房、1947(昭和22)年5月10日

永井荷風

分量:約8
書き出し:戦死したと思われていた出征者が停戦の後生きて還って来た話は、珍しくないほど随分あるらしい。中には既に再縁してしまったその妻が、先夫の生還したのに会って困っている話さえ語りつたえられている。そういう話を聞いた時、わたくしは直《すぐ》にモーパサンの「還る人」Le Retour と題せられた短篇小説を思起《おもいおこ》した。テニソンが長篇の詩イノック、アーデンもまた同じような題材を取っていたように記憶し...
更新日: 2022/03/15
3afe7923d6ecさんの感想

永井荷風のストーリーテラーとしての豪腕を見せつけられるような小篇だ。 登場人物それぞれの際立った個性がしっかりと描かれていて、身動き取れない息詰まる状況のなかで、出口を求めてもがき苦しむ兄弟が、一人の女をめぐって葛藤する心理劇のスペクタクルが余すところなく語られる。 出征していた兄の戦死の通知が届いたとき、兄の嫁をどうするか、家族で話し合われるが、結論はすぐに出た、 改めて弟が兄嫁をめとることに決したのだ。 兄嫁も弟も、もとよりそのことに異存はなかったし、むしろ、一家の円滑な生活の継続のためには、それはごく自然な成り行きだったとさえいえる。 平穏な生活が続いていたある日、不意に戦死したはずの兄が帰ってきた。 暗闇からぬっと現れて最初に声を掛けられたのは、もと兄の妻だった弟の女房にだ。 女は驚愕し、近所の仲人の家へ逃げ込み、やがて彼女の実家へと逃げ帰った。 兄弟を交えて家族は今後のことを話し合った。 要は、嫁をどうするかだ。 その結果、兄弟が互いに譲り合う意思を表明したことで、あとは嫁の意思ひとつだということになった。 あいだに入った仲人は、実家へ逃げ帰った嫁に意向を聞きにいく。 もと嫁は言う、自分は、もはや兄弟のどちらとも一緒になりたくはない。東京へ出て給料のいい仕事を探すのだと、元の生活に戻ることに忌避をあらわにする。 この部分の描写に荷風の神経が、微妙、敏感に反応したように感じる。 その後の彼らの散り散りになっていく動向を、荷風は抑えた筆致で描いているが、冷静さに努めているだけ、むしろ逆に、兄弟ふたりに体を許してしまった戸惑い(羞恥とか貞操感とは違う女の同調性と順応性へのきまり悪さ)をこれ以上晒したくないという女の心情を、荷風はこのとき素早く嗅ぎ取ったのではないか、という気がしたのである、自分的には。 従来のように、ストーリーの流れを惰性に任せてしまえば、女の心情も型にはめられてしまって、紋切り型の「運命」に閉ざされてしまい、おそらくは、こうはなるまい。 芥川龍之介の「或恋愛小説」でも見ることのできた破調がこの小説にも窺われるわけだが、これって、やはり、アルベエル·ティボーデの「真の小説は、小説に対して発する《否ノン》によって始まる」の影響があるのか、判然としないが。 いずれにしても、傑出した小篇。いやいや、感心しまくりであった。