永井荷風が、綺麗な半裸の踊り子さんたちに取り囲まれて、嬉しそうに満面笑みをたたえている写真を、以前なにかで見た記憶がある。 足しげく浅草のストリップ劇場とかに通っていた頃に写されたものだったに違いない。 確かその記事には、その劇場のために、というよりも踊り子さんたちのためにだと思うが、軽い寸劇を書いてあげたと記憶しているのだが、もちろん遠い昔のことなので定かではない。 もしそうなら、この「渡鳥いつかへる」という一幕ものの戯曲も、そのときのものではないかとふと思った。 そう思わせるだけの軽さと稚拙さが、この戯曲にはある。 いうまでもないが、その「軽さと稚拙」は、愛らしさと同価のものであることはいうまでもない。 内容も、肺病やみの娼婦が今の自堕落な生活を変えたいと、盛り場を流して稼ぐ男二人組の歌うたいの仲間に入れてもらうが、やがて病が進んで女は郷里に帰らなければならなくなる。 彼女がいなくなってしまうと、流しの稼ぎも減り、男たちの生活の張りもなくなる。 あの娘は、どうしているだろうと思い出していたとき、雨の夜に突然、ずぶ濡れになって彼女が帰ってくる。 どうせ死ぬなら、ここで死にたいの、と彼女は言う。 なにも永井荷風が、わざわざ書かなくたってよさそうな寸劇だが、しかし、この戯曲の全編にただよっている緩さが、どうにも気に掛かった。 第一、冒頭の彼女が、娼婦という職業が嫌で、歌うたいになりたい とはどうしても見えない、ただ歌うことが好きだから、流しになったとしか見えないのだ、 それに、どうせ死ぬならここで死にたいとか言いながらも、劇の雰囲気は不思議な明るさに導かれて楽観のハッピーエンドにどんどん流れ込んでいくような楽観しか感じとれない。 この明るさと楽観は、荷風の「娼婦観」と「死生観」にある。 俗世のつまらない価値観や社会の愚劣な軛のなにものにも囚われることなく、あらゆるものから解き放たれて自由に生きる娼婦たちへのリスペクトが込められた、これはそうした戯曲なのかもしれない。