どこかで読んで初めて知ったのだが、寺田寅彦は、書くべき随筆の本数をあらかじめ何本と設定しておいて、その達成を目指し執筆していたらしい。 なるほど、それでジャンルの豊富な程よい長さの(短さの?)エッセイが、やたら多いことが理解できた。 そういう百人斬りみたいな軽い乗りのエッセイなら、さだめし気楽なエッセイなのかと思うと、そうでもなくて、小難しい研究論文みたいなものもあって、こちらは一生懸命読むのだが、残念ながら、こちらの頭が一向についていけないエッセイに何本も遭遇したことがある。 しかし、やはり、こうして読んでみると、比較的多いのは、実験を伴う理科系の話と映画関係の話が際立っているような気がする。 このエッセイも、写真のカラー化の話題なのだが、冒頭にフランスの映画会社リュミエールの名前があるから、ジャンル的には、やはり映画の話として仕分けしても差し支えなかろう。 そこには異論もあるかもしれないが、リュミエール兄弟は、一応、映画の発明者だ。 このエッセイで述べられている色の三原色の技術的な話などは、自分が社会人になった頃には、まだまだリアルな話で実用されていたわけだから、物凄いことだと思う。 とはいえ、隔世の感はやはりあるが。 このエッセイが書かれた日付が末尾に記されている、明治40年9月21日、東京朝日新聞とある、まだ漱石が存命の頃だ、それもなんだかすごい。 すごいついでにもうひとつ、まず写真があって、それが動き始めて映画(活動写真)となり、やがて「声」(トーキー)を獲得して、やっと「色」(天然色、第1作は風と共に去りぬだったか)がつくわけだが、この明治40年の時点で、つまり映画が発明されてからまだ10年経つか経たないくらいの時点で、すでにカラー化にチャレンジしているなんて、それも驚きだ。 そうそう、映画の世界において、白黒からカラー化への移行期に名匠といわれた多くの映画監督たちは、みな悩み躊躇した。 チャップリンがそうだし、小津安二郎も黒澤明もそうだった。 人それぞれで一概に決めつけるわけにはいかないが、思うに、色がつくと、人間のリアルな生々しさが前面に出すぎてしまうからではないか、特に、肌色とか、血とか。 モノクロの中の人間は、まだまだファンタジーの中に留まる存在であり得て、我欲や狡猾などとは無縁の存在として語り得たからではないかと、ちょっとかんがえてみたことがある。 最近でも、ときどきモノクロの映画が作られるけど、あれって、なんかそれだけで名作みたいに見えてしまうから、不思議だ。