主人公は自分の内に巣食う心の中の獣に喰われてしまった。 哀しい話だけど、ちょっと考えさせられた。
自らの羞恥心に喰われた男。 カフカの変身とは、違う変身。 彼が自らの過ちに気づいた時には、全て遅かった。
『山月記』が何故教科書に載っているのだろうか?と考えてみた時に、通常であれば、 「己の才を信じるばかりでなく、そのような臆病な自尊心は捨てる事が重要である。そして世間と交わるか、志高きものと切磋琢磨するかをしなくてはならない。」 ということを教えるため、というのが一般的だと思う。 では、それ以外のものをこの文章から感じてみたい。そう思いながら読んでいくと、私は、李徴の姿勢が、非凡だが一歩足りないという点で、現代のアーティストでいうと、三浦大知に近いものを感じる。彼らは技術はすごい。三浦大知はダンスも歌もうまいが、しかし、彼の主張は何なのだろう?と疑問に思ってしまう。売れるための曲、オリコンのための曲だ。李徴は秀才なのであるから、たくさん勉強したのだろう。だが、彼の「人生」を一文に要約してみたときには、 「名誉」を求め生きた という一文に落ち着くのではなかろうか。一流の詩を吟ずる、一流の詩人になる。そのようなことを目標にした人間の詩は、美しいが、同時に修辞的であると思う。李徴には役人か、あるいは教師か外交官が向いていただろう。詩人や政治家、思想家には彼は向いていない。と、私は思う。 李徴はやはり磨いたとて、虎になっていたのではなかろうか。足るを知る。それもまた、当たり前の警句として、彼は詠じる必要があったのではなかろうか。
やりたいことをやりたい
中島敦の山月記は役人をしていた李徴が詩人を目指して、南方へ行ったが、彼の性格から虎になってしまった。かつての役人の友人が草むらで会うが、虎の姿を見られたくなく、しかし、詩人としての李徴を残して欲しかったので、詩歌を記録用したもらい、その後、友人に虎の姿を見せて消え失せた。李徴は自分の性癖欲望が虎にしてしまったと思っているが、果たして?
下吏としての境遇が我慢ならず、詩人を目指すが、己の成功だけを夢見て、妻子の生活を顧みず、到頭我慢ならず、野に駆け出す。利己的な考えを後戻りできない境遇になって、かっての友に出会い、初めて自己嫌悪になり、後悔する。男が陥りやすい生き様を見せつけられ、心が震えた。(周五)
切ない話だった 短いが考えさせられる作品。
読んでいて辛かった。
言葉が難しいかと思えばそんなこともなく、普通に読めた。短い上に面白い。いい人を知った。
読むたびに、自分を重ねてしまう。唯一、違うところは…虎になるほど何かに執着していないこと。
教科書に載っていたと記憶するが 内容を覚えてなかった 変身物語だったようだ そんな気がしてきた 人から虎へ 役人の仕事がイヤで (アホな上司に仕えるのは自尊心が許さへんで) オイラは詩人になるんだ! 役所辞めたるワっ! アホ連中と絶交ヤ! 夢敗れて現実アリ 再び役所へ 同期が上司になってた ショックや~ 自尊心ちゅうより羞恥心やナ 気が狂った 野獣の心が目覚めた 俺は虎になった タイガーマスクや! 何故、私は獣になってしまったのか? と考えるのが普通だが やがて 何故、自分は昔は人間だったのだろうか? と回顧するかも知れぬ それは恐怖だ 人に生まれる運命と虎に生まれる運命とこの差は一体何だ? 老人や身体の不自由な方への社会的配慮はあるが、犬、猫、猿、猪、キョンのことまで考えた街づくりを役人の方にはお願いしたい
何回も読み返している。 整然とした文体、読み手の想像を駆り立てる情景描写。 現代社会でも充分に共感できる。 読む度に深く抉られる。 何か見失いそうな時に、何故か手に取ってしまう物語。
すばらしい
高校の現代文でやった時、李徴がただの自己中心的なわがままヤローだという印象を持った。 自己中心性と他者からの評価懸念。対人恐怖を思い出す
「臆病な自尊心」って、他人とは思えないな。