あの世に 旅立つ際の 別れが 永遠の 訣別となるので どうしたらいいのか 誰だって 戸惑ってしまう。とりわけ 可愛い盛りの 溺愛する幼子を 野辺の送りを しなければならないとは 葬儀を 調え 自らの 揺れ動く 哀切なる心情をも 整えなけれ 日々の 生活の 営みに 戻れない。誰もが 通過しなければならない 試練を 描いて 巧みであると 想った。
ただ、ただ、心が苦しくなる
伊藤左千夫の奈々子は、我幼き一才半程度の子供が、小さな池にはまって死んだ。その子の死に顔は、今も生きて寝ているよう。死んでいるとは信じられない。事故の起こった池に行って、いろいろい調べ、奈々子を思い出すと涙がでてくる。妻も奈々子の側で悲しみ泣き俯いたままである。お通夜のあと、どうなるのか?かんがえると、しかし、静寂の深夜は何故か自由な気分になっていたが、とても疲れを感じた。伊藤左千夫の亡き人の別れの心情を描いたもの。じんわりと心にくる。
家族の死。 通夜とか葬式とか他人からのお悔やみとか 何もかも本当は 要らない、何もしたくないというのが 素直な心理だと いつも思います。 反面、煩雑なことを、形式ばってすることで 少しは、悲しみから一時的にでも 遠ざかることができる気もします。 作者は 慟哭の日から どのくらい経って この文を書かれたのだろうか。 書き記すことによって さらに無念さと 悲しみは深まっただろう。