「かのように」の感想
かのように
かのように
初出:「中央公論」1912(明治45)年1月

森鴎外

分量:約61
書き出し:朝小間使の雪が火鉢《ひばち》に火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿《ひでまろ》の部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。「おや。さようでございましたか。先《さ》っき瓦斯煖炉《ガスだんろ》に火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって、お床の中で煙草《たばこ》を召し上がっていらっしゃいました。」雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入《はい》った時、大きい葉巻の火が、...
更新日: 2023/06/05
86c84c267c74さんの感想

誰も考えを共有できないのだったら、啓蒙の意味などない。

更新日: 2019/10/26
19双之川喜41さんの感想

 「無いものを、あるかのように考えなければ、なりたたない。」 難解であるけど 一面の真理はあるように愚考する。 当時の留学生の 意気込みが伝わると感じた。

更新日: 2016/11/13
00ce85d71aeeさんの感想

今の思想もそのうち未来人に「かのように」に分類されるのかと思うとなにを信じていいのかわからなくなるから考えないことにした

更新日: 2016/01/31
3e9c4b240bacさんの感想

急速に開明化をとげた明治日本人の、思想上の苦悩を書いた作品。 主人公の秀麿は、歴史家を志す青年。日本で教育を受け、洋行して発展した教育を受けて帰ってきた。さて歴史家として活動しようとするが、欧州の発達した文化思想と日本の旧弊な文化思想とが違いすぎることに苦悩してしまう。例えば、日本の農民は祖先の霊の存在を信じているし、道学先生は天の存在を信じている。一方、欧州では、霊魂の存在などはある「かのように」扱われているが物質的にはありえないというのが周知の事実。ただ、霊魂や神の存在を否定しているわけではなく、便宜上ある「かのように」扱われている。哲学や数学だって、ある思想や点や線といった概念は(実際は無いはずでも)ある「かのように」扱われている。世の中のすべての学問や道徳というものは、そうでないと成立しないからだ。 欧州の、そういう「無くても便宜上は認める」という思想は、明治の日本には存在しない。 秀麿は、そんな思想を持つ自分が、家族(特に父親)や、社会から「危険思想家」として扱われてしまうのではないかと危惧し、なかなか歴史書を書けないでいる。 洋行から帰ってきてにわかに住み慣れた日本に居心地の悪さを感じているようである 一方で友達の綾小路は、「かのように」を化け物だと言い、鼻で笑って「そんなことは気にしない」という。おそらく大多数の人間がこの「綾小路型」なんだろうけど、 繊細なタイプの日本人にとって、明治の文明開化というのは物質的な開化だけでなく思想の上にも、カルチャーギャップというか新しい煩悶をもたらしたのでしょうね。 鴎外もきっと洋行から帰ってきたとき同じことで悩んだのだろうな 明治人の新たな悩みをリアルに見せられたというか実に興味深い作品でした。