しんどい 善悪の判断はマジで人による、主観でしかないので そんで主観は育ってきた環境、人間関係とかで決まるわけだから全員同じわけないのに奉行は決まりを決まりとして考えなきゃだから罪は罪で裁かなきゃいけない、それはわかるけど わかるけどしんどい 許すのも違うけどさー 喜助くんがただただ優しくて胸が苦しくなる あまりにも暗いところにいると僅かな光もメチャクチャに眩しい、でもいつも陽の下にいると僅かな光なんて目に入らないんだよね そこの理解がないまま均一に物事を考えてもなにもわかるわけがない、想像力がいる みんないろいろ想像して生きてね 苦しみも光も善悪も人それぞれ、他人のことなんて100%わかりっこない、でも想像することはできるから あたしの人生もお前の人生もあの人の人生も、そしてこのお話の中の人たちの人生も ちゃんと、考えながら生きないとなー意味ある生きるってやつはそういうことなんじゃないの、知らんけど
最近私の住んでいる地域で兄が、ガンに悩む弟の首をしめて殺したと言う事件がありました。警察への供述では弟に頼まれたと記事にはありました。 そんな馬鹿なと思いましたが、! 人に薦められてこの小説を読んでみると、なかなか単純な判断は出来ないものだと思いました。
足るを知る。これは現代に生きる私達には中々難しいことではないだろうか。どんな状況にいても、幸せに生きられる人になりたい。 喜助に「幸せ」とは何か一つの答えのようなものを教えてもらった気がする。 喜助の状況なら、僕はどうするのだろう。難しい問だが、考えてみたい。
身の不始末からでもないのに、ずっと追い立てられるように生きてきた男が、ある罪状により流刑となり、それを幸せという。 人の幸せの基準は、どこにあるのかを問う滋味深い一作。人生をせめて1/3過ごしたあとに読むと、我が身を振り返りながらじわじわと沁みてくるはず。 個人的好書のひとつ。
作品名と粗筋は大方知っていた。 縁あって初見した。えっ? 之があの高名な鷗外なのか? 洋行帰りのハイカラな君子の産物なるや? ビックリしたから他の作品も少し読んでみた。それで、正直に書こう。鷗外は何処かの藩の代々の典医の息子なのだそうだが、当時我身を顧みて、余り背伸びせず、のんびり田舎医者を全うすべきだったな。小説家志望? これじゃ家名の誉れとは成らぬだろう、、、
弟は治らない病を苦に行動を起こし、兄は苦しみから開放してあげた。今の時代なら法はどう裁くのだろう。
一度読んだ。
喜助のような男でありたい それにしても弟よ 後に残される兄のことを思うなら 布団を血まみれにして自害はいかんよ
罪ではあるけれど絶対悪とはいえない。情景の浮かぶ深い物語。
真面目な人が見てもひねくれ者が見ても、楽しめるいい作品。
話に引き込まれる。 文体の古さこそあれ、語りが分かりやすいのが素晴らしい。 極貧にあり、足るを知るとは、こうなのだなあ。現代も見習うべき所かもしれない。
安楽死の是非。100年以上前に書かれた作品ながら、現代にも通じる普遍的なテーマを扱った作品である。作者のスタンスは明示されず、読者に問いかけるように話は幕を閉じるが、「これは罪だろうか(いや罪ではない)」と反語によって作者の考えは示されているように感じた。 旧字体が多いが、読んでいるうちに徐々に新字体と結びつき、それも一つの楽しみとして読むことができた。
さす鴎外
喜助の持つ「足るを知る」精神に共感を覚える主人公庄兵衛。喜助の犯した罪は果たして本当に「弟殺し」と言えるのか。 庄兵衛の抱く疑問と読者の疑問とが重なる。
何が正解かなんてないって思い知らされるけれど、正解だったのか、間違いだったのかと考えてしまう。 切なくなる。せめてもこれからの生活で喜助が後悔せずに暮らしていければいい。
なんとも切ない、寂しいはなしですが、話す本人が希望を捨てていないのが救い。彼から学ぶことはたくさんある。
昔教科書に載っていたので懐かしくなり読みました。 罪人の言うことが全て本当かどうかという点もありますが、人を殺めた経緯によってそれは全て罪かという話は現代に通じるものがあります。 自殺幇助と殺人、罰として与えられた島流しの方がもとの暮らしよりましだろうと思える生活状況。 苦界に生きる辛さと弟の死により得られる別天地での生活。 人の世は不条理で苦い。
何度読んでも、かなしくてうつくしくて、なんともいえない気持ちになる。 もっと若いときに読んだときは、兄と弟の関係に胸が苦しくて泣いた。 どちらを選ぶのが正しいのか、決められないことなんてたくさんある。 間違ってたかもしれないけど、やりなおせないことだってたくさんある。 喜助とおなじようなことは、ほとんどの人は経験しないはずだけど、 みんな多かれ少なかれ、なやみ、ふりかえり、受けとめて今を生きてる。 自分の手の中にあるものもよくわからないけど、出来ることは、今いる場所からどこかに足を踏み出すことくらいかな。 などと考えました。 ぐれもせず、諦めもせず、うけいれ、今をたんたんと生きている喜助が不思議。
現代女性として、喜助に勝手な共感を覚える。 ここへいろ、と言われたところにいられる安心感は、例えそこが遠島であろうと、牢獄であろうと、居場所のないより余程マシだと思ってしまうのは、私にとって現代日本は喜助にとっての京都だからだ。それは居場所が定まらないまま、無駄な努力を強いられているということだ。 ここ最近の女には、それまでの女には無い重要な命題が背負わされている。 労働者であるべきか、家庭人であるべきか。 両立しろと人は言うけど、それは口で言うほど簡単なものではない。 産みもしない他人どもにはわからないだろうが、相当な幸運と努力と多大な犠牲の上にようやく一握り与えられる奇跡である。 しかも、どれほどの努力を重ねたところでどちらも(下手をすればどちらかさえ)手に入れられる保証などどこにもない。 それなのに、周りからは何故手に入れないのかと責め苛まれる。 なぜ彼氏を作らないのか、なぜ結婚しないのか、果てはなぜお洒落をしない、化粧をしない、男に媚びない、などと、ただ生きているだけで文句をつけられる。 しかし昨今の男性も経済的状況は厳しいと見え、女に払う金など無いと、苦い顔してこちらを睨む。 となると、喜助の如くに左から右へと金を動かすだけで精一杯の生活が、出来もしない(だがしなければ責められる)恋愛活動のために更に圧迫されていく。 恋愛活動に必要な経費を支払うためには仕事をしなければならない。仕事をすれば時間も体力も削られて、恋愛活動に充てる力は殺がれていく。 けれども皆は努力が足りない両立しろと責め立てる。 もう誰か、「お前はここにおれ」と言ってくれないだろうか。 お前は一生仕事をしておれ。 お前は結婚をして子供を作れ。 別にどちらでもいい。 例えそこが遠島であろうが、牢獄であろうが、居場所の定まらぬまま、無駄な努力を強いられるよりは余程マシなのだから。
大正時代に書かれたものだが、現代でも同じ事で悩んでいる人が大勢いる。認知症や介護、難病、ストレス、死なせてあげたほうがその人の為になるのではないか?尊厳死と言う考え方もある。でも、それは法的には殺人である。未だ解決には至っていない問題である。