しおり
漱石の朝日新聞へのデビュー作。恐ろしく凝った文章とかなり複雑な 筋立て。そして冷酷な結末。 当時街の新聞売りは「漱石の虞美人草」と連呼して実際に飛ぶように売れたそうな。
後半から読むと 退屈しないかもしれない。 題意は ヒナゲシだそうで 時には 毒性が 問題となるは 奇(く)しくも 何かを伝えていると 感じた。 難解な文章に 立ち向かう根性が 達成感を もたらすことは あるかもしれないと感じた。 安易な 思い込みと 偏狭では 末代まで 浮かばれない。
悲劇のヒロイン藤尾の死と、説教臭い欽吾のモノローグ、とって付けたような宗近の警句でこの作は終わる。全編を覆うのは伝統的な漢籍文化芸術についての膨大な知識を背景にした過剰なまでの装飾文体。正宗白鳥ならずとも、漱石ファンでもこの作はあんまり評価は高くない。漱石村の元勲、小宮の岩波全集での解説でも、藤尾を悲劇のヒロインとして舞台化したいというような評価の仕方は当時からあったとの由。朝日新聞入社第一作の意気込みとは裏腹に、どうにも中途半端な読後感ばかりが残る。 しかし、この作を漱石版『白痴』であると気付くと評価は一変する。自己愛の権化たる丙午のヒロイン藤尾(十二章)は、ドストエフスキーの『白痴』のナスターシャであり、或いはヘミングウェイの『日はまた昇る』のブレットである。前者は維新頃の日本であり、後者は昭和の始まりの日本だ。藤尾は、さしずめ明治の終わりに日英同盟下でロシアとの戦争に勝利して自惚れている日本であろう。 話は京都比叡山に宗近と昇る甲野さん(こうやさん、ではなく、こうのさん)から始まる。甲野さんの父は、外交官で、駐在先で病気を患って客死したばかりである。宗近もまた、外交官の卵だ。時々、宗近と甲野、もしくはその他の人物との国際情勢談議が割って入る。 「日本が短命だと云うのかね」 「日本とロシアの戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」 「西洋へ行くと人間二通り拵えて持って居ないと不都合ですからね」「不作法な裏と、綺麗な表と。厄介でさあ」 甲野欽吾は哲学者である。三章には、彼の仏教めいたカント的存在論が語られる。これは『野分』の道也先生が主客を一対と説く東洋的認識論の続きではある。しかし、もう一方で、甲野は西洋進歩主義の尻を追い掛けて人間絶対主義の哲学を開陳する明治らしい知識人でもある。漱石はこの自らの分身であるかのような甲野を、比叡の山でも悟れない人物として書く。 小宮の言に依ると、この作は小宮自身がアーサー王伝説に取材した漱石の『薤露行』の文体で今作をお願いしますと頼んだのが、そのまま出来上がったということらしい。或いは、『虞美人草』は作中で甲野がそう揶揄される『ハムレット』であり、物語の最後にシェイクスピアを念頭に置いた甲野の悲劇論が開陳される。人民の情操のために悲劇を奨励した皇帝ナポレオンを連想するところである。当のロンドンに外交官として赴任した宗近は、甲野の論に、「ここでは喜劇ばかりが流行る」と応じて作品は終わる。それが漱石の日英同盟時代だった。或いは、漱石の朝日新聞入社第一作の、世への問い掛けだったと言えるだろう。 最後辺りで、宗近が小野を捕まえて、「人間、人生に一度は真面目(まじめ)にならなきゃいけない」と真面目ということについて長々と説教をする。少し遅れて、漱石はこの作に多い禅語をここでも引き合いに出して、人間の「本来の面目(めんもく)」なることを云々する。真面目とは「しんめんもく」の謂いである。 漱石は若い時代に読むべきで、年を取ってからもう一度読むべきである。
夏目漱石の『虞美人草』は、やはり漱石である。必ず登場人物の一人を死なせる。人生は全て喜劇で、悲劇は最後の死である。どうも夏目漱石の小説はハッピーエンドで終るストーリーがなくて、必ずや誰かを犠牲にする。漱石の性格なのか⁉
惚れ惚れと文体に自己陶酔している作家のナルシシズムな顔が目に浮かぶ。 ハイハイ漱石さんは博学ですね
漱石哲学 小夜子がイジラシスギルです。
一番の悪人は小野さんなのではないかと。