麻雀と 書いてなく 博打と してあったので 見つけ出すのに 苦労した。十九章 25ページに 記して あった。 「四人で博打を打っていた。博打道具はすこぶる雅なものであった。厚みも大きさも将棋の飛車角ぐらいに当たる札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。その札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合わせに接いだもので、その象牙の方にはいろいろの模様が彫刻してあった。この模様の揃った札を何枚か並べて出すと勝ちになるようにも思われるが、要するに竹と象牙がぱちぱち触れて鳴るばかりで、どこか゛博打なんだか、実はいっこう解らなかった。ただこの象牙と竹を接ぎ合わした札を二三枚貰っ来たかった。」原文のママ。 南部修太郎よる 麻雀の 文学作品での 初出かもしれないと される。
胃痛に悩まされながらの外遊で、さぞ難儀なことだったろうと思う。 それにしても、この時代の人の学生人脈は、現在にものとは比べ物にならす、それこそ友達の友達は皆友達で、遠慮会釈ないつきあい方がとても羨ましい。 私が思い描いていた漱石は、貸しも作らなければ、借りることもない、むしろ人付き合いの難しい人という印象だった。人任せの(借りっぱなしの)紀行は以外だった。
小説家に紀行文を書かせると 面白くもないのが 多いけど 漱石は 「坊ちゃん」口調で 言いたいことを言ってのけるので 抱腹絶倒 読まなきゃ損ということにはなる。 すき焼き屋で は 食が進まないので 寝っ転がって 女性の 膝枕で休んだ とか 英語で演説を始めようとし た時は セリフの後が続かず 弱ったとか 意外な面が なんともおかしいと感じた。
夏目漱石の『満韓ところどころ』は、大連に漱石が行ったときの報告のようなもの。支那は不潔で汚なく無神経等と、事ごとく貶している。漱石にとって支那は侮蔑の対称でしかなかったのであろう。わからなう事もない。