雙河喜之 漱石も また 江戸弁くずしの 東京弁のように 感じるけど 四迷も そのながれを 汲んでいるように 勝手に 愚考した。四迷の文体を 確立するための 試行錯誤についても ほとほと 感嘆した。ひるがえって 礼儀作法というのは もともと 漢語らしいけど 発祥地である 世界中から 尊敬されているとは 言いにくい 某国で 礼儀作法という 言葉も 実態も 今となっては 復活することは 消し飛んでいるようなのが 現状では 特に皮肉なことに 見えると想った。礼儀の 國として 世界から ふたたび 高く 尊敬される ことは 絶対ないと 決めつけて かかるのは かなり 独断的 かもしれない。自発的に 礼儀 復興 国民 運動が 起きることは どう見ても 某国では 有り得ないと 決めてかかっては いけない。誰にでも 機会は ある。05:29
いまの時代は口語と文語にそれほど違いが無いように思うから、当時は大変だったろうと思う。話せても文語文が分からないと書けないなら、文筆はハイソの文化だったんだろうか。教養がないから想像だけど。そして浅学なので言文一致について調べた、すると人によって話し言葉を口語だの、畏まった言い方は文語だの、古語を文語だのと一貫してない。もはや現代に区別さえないのかもしれない。それなら二葉亭四迷や山田美妙らの言文一致運動は成功してるんだろうね。ただ文語の失われた感じが否めない、それは少し寂しいように思う。
二葉亭四迷の余が言文一致由来で。二葉亭四迷は初め円朝の落語をその文体に用いようとするが、二葉亭四迷が江戸人だけに江戸弁になるので、敬語を使わず、~だ調の文体にしたが、山田美佐は~です調になって、異なる。次に式亭三馬の文を倣ったが、べらぼうめえ、調の又、江戸弁でなかなか近代口語体小説、言文一致文が確立できていない。二葉亭四迷の『浮雲』に江戸弁が頻発し、講釈師調の漢文訓読調の文体が渾然一体となってわけわからぬのはこのためたか?